マザーランド アカデミー インターナショナル
  • Home
  • About
  • Project
  • Episode
  • 宝島作戦
  • Side Stories
  • Contact

宝島作戦…ご紹介、
マザーランドアカデミーインターナショナル
理事長: 村上祥枝


---- ぬいぐるみの願い ----
1982年4月、マザーランド・アカデミー ・インターナショナル を設立する少し前、幼稚園児 の子供を持つある 母親 がその子を虐待するのを止められないので「どうしたら虐待を止められますか?どうしたらもう一度子供に慕って貰えますか?」と 村上大志 に相談しに来た。幼稚園児 のその子は習い事の時間になっても遊びから帰って来ないでズル休みしていたらしい。母親は怒って子供が大切にしていた犬のぬいぐるみを取り上げて「習い事をズル休みしなくなるまで返さない」と言った。大切な友だちを奪われたその子は夜眠れなくなり、朝は腹痛で大好きだった幼稚園も休みがちになった。本当にその子は腹痛になっていると思うのだが、その母親はとうとう手を挙げて、その子は泣き出して幼稚園にも行けなくなった。そして朝、母親の顔を見ると途端に泣き出すようになり部屋から出て来なくなったというのだ。家事に追われ、交友関係で悩み、大人の手本になるような正しい行動をする我が子の存在が自分に対する 説教 のようでその 母親 は我が子に優しくなれなくなり、虐待するようになっていた。
「 親を大切に思う子供の心は無条件なんだよ。怒られても、手を挙げられても、その子はお母さんのことを世界で1番大好きだったはずだよ。だけど、その子がお母さんのこと無条件に愛してくれてるように見えても、それが永遠に続くとは限らないよ。子供は誰かを幸せに出来たら自分は幸せだと思っているから、大好きなお母さんに手を挙げられたら、子供はいつか自分は要らない存在だと思うようになるだろうし、他に自分を大事にしてくれる所へ行っちゃうよ 」
「 子供が誰かを思う時、無条件に向き合うように、子供を愛しむ母親の愛は 無条件 のはずなんだよ。その子が生まれた時、お母さんは反抗しない子にならなければとか、有名中学 に合格しなければ生まれてこないでとか条件なんか付けなかったでしょ?もしお母さんが条件を付けないと子供を愛せなくなったのなら、作っちゃった条件を無くせば良いんだよ。子供たちが持っている様に、お母さんにも 無条件 の 愛 は生まれつき備わってるよ。無くなった訳じゃないから、心の何処かに必ずあるから、その愛を見つけて子供と向き合えば良いんだよ。まずその子に今までの事を謝って。おもちゃにも心があるから、その子の前で犬のぬいぐるみにも謝ってね。おもちゃは子供たちに喜ばれても、結果的に捨てられても最後の時まで子供たちに 無条件 で寄り添っているんだよ。だから、おもちゃはお母さんに無条件の意味を思い出させてくれるはずだからさ 」 マザーランド・アカデミー・インターナショナル が会合と活動で使っていた品川区立勤労者福祉会館 ( 現在の 中小企業センター ) の 非常階段で、ある母親に 村上大志 が諭した話である。

 
--- おもちゃの店チャッピー ---
旧東海道の 青物横丁 と 新馬場 の間の城南小学校の前に1970年代から1990年代に掛けて「チャッピー」と言う おもちゃ屋 さんがあった。村上大志 が 東五反田 の宇都宮邸 を後にして、南品川 の徳洲会マンションに引っ越してきたばかりで友達も知り合いもいない時に 青物横丁 で1番初めに見つけたおもちゃ屋さんだった。チャッピーの入り口には4台のアーケードゲームが置いてあり、子供たちはゲームセンターの半額の50円で1ゲーム楽しめるのだ。知らない子供たちに気づかれないように村上が速やかに入り口ドアを開けて中に入るとそこは昼間のトワイライトゾーンだった。そして覚えのある匂いがした。その匂いと煙はチャッピーの店主が店奥で吸っていた ハイライト の煙だった。店奥のテーブルの上には見慣れたハイライトの箱とステンレスの灰皿に置かれた喫煙途中の火がついたハイライトが一本置いてあった。
 
村上はガンダムと飛行機のプラモデルの在庫状況を確認したかったのだが、その前に煙の向こう側でこちらを見ているチャッピーの店主と目が合ってしまった。 細身だが頭に パーマ を当てたそのおばちゃんは目力が強くて、村上はビビってしまい「 そッその匂いハイライトですか? 」と目当ての商品と全く関係ない問いかけをしてしまった。「 なんだぁ、よく知ってんじゃん、僕も吸うの? 」これがチャッピーのおばちゃんと村上の1番初めの挨拶になった。
「 南品川では小学生がタバコを吸うんだ! 」村上は更にビビってしまった。「 いっいえ、父がハイライトを吸ってます 」と恐る恐る答えた。「 ちちってなんだっけ?あーお父さんのこと?良いタバコだからねー 」とおばちゃんは答えた。「 あのーガンダムのプラモデルはありますか? 」と村上が問いかけると「 あれーみんな話してんだよねー、僕も欲しいの? 」とおばちゃんから村上は南品川で1番初めのおもちゃ流通情報を得られた。「 取っといてあげようか? 」とおばちゃんは促してくれたが、村上に必要なのは情報だけなので「 家に帰って貯金箱の中身を確認してからにします 」と答えた。「 貯金箱持ってきちゃいなよ、おばちゃんが数えてあげるから 」と親切なのか恐喝なのか分からないおばちゃんの返答に村上は更にビビって「 それではまた来ます 」と大人のような返答をしてチャッピーを後にした。
 

- ベビーブーマーズ・マーケット -
1980年初頭に「 機動戦士 ガンダム 」の初回テレビ放送が完了して直ぐに 腕利き モデラー 達は全てのパーツを手作り( フルスクラッチ )して各々の ガンダム を制作して、その手作りガンダムが雑誌「ホビージャパン」に掲載されて、機動戦士ガンダム の模型熱はバンダイからガンダムのプラモデルが発売される前から火が付いていた。村上が生まれた 1973年 は 第2次 ベビーブーム の頂点の年であり、おもちゃメーカーはしのぎを削って 新商品 を開発して市場にあらゆるおもちゃが溢れていた。スマホ がない時代でも講談社のテレビマガジン、コロコロコミック、集英社の少年ジャンプのおもちゃ広告とバンダイの模型情報を見終わり子供達が新製品を理解する前に次の月が来るような時代だった。この頃の村上の想像力は野山の自然と大人が作る創造物のおもちゃを自分の生活にフィードバックさせるサークル構造から生まれていた。毎月発表される新作おもちゃとその流通情報が村上には必要不可欠だった。
 

--- 品川戦域 ---
青物横丁 に引っ越して来た時、村上の足は補助付きの14インチの自転車と自らの足だけだった。宇都宮邸で相棒だったゴーカートの「 大志号 」は 東松山 の 東光書院 にしまわれて何処にあるのか分からなかった。南品川 のマンションからチャッピーまでは300m余りで 第一京浜国道 を 歩道橋 を渡れば歩いて小学生 が 安全 に行ける場所だった。大井第一小学校 の隣にある 大一堂模型 や 戸越銀座、中延、西小山商店街 のおもちゃ屋に行くには自転車で走っても時間が掛かった。大雨の日と雪の日になると村上は自らの足で走って自転車で行く距離を往復するしかなかった。生活圏内 で1番近くにある おもちゃ屋 はチャッピーだった。村上は訪問する度に チャッピー のおばちゃんと恐れず会話できるようになり 小学校1年生 の 2学期 にはおばちゃんに夕食の カップ焼きそば を店内で食べせさせてもらえる間柄になれた。
 
1980年代 前半、任天堂ファミリーコンピュータが発売される前まではゲームウオッチでは遊びのキャパシティー不足で子供たちの人気おもちゃはまだガンダムのプラモデル ( 通称: ガンプラ ) や ゼンマイ エンジン で走るタカラの「 チョロQ 」などの現物おもちゃが主流だった。小学校の給食以外に食事を出来る場所は限られていた。毎日の夕食の場となっていたチャッピーが無くなると 学校給食 以外に食事が出来る場所がなくなって困るのと、江戸っ子 だけど マイリー・サイラス ( Miley Cyrus ) に似ているチャッピーのおばちゃんと足並みが揃い始めていたので、昭和時代 に 令和 の 人工知能 を名前で先取りしていた  おもちゃの店  チャッピー を繁盛させるべく 村上は営業方針 を考え始めた。
 
チャッピー の店先には アーケードゲーム があるのと小学校の目の前と言う 好立地 条件 なので店先は子供たちの溜まり場になっていたが、店内の トワイライト 空間 と店主であるおばちゃんの独特な 接客姿勢 が子供たちを店内から遠ざけていた。誰とでも友だちになれてしまう村上でさえチャッピーのおばちゃんを怒らせずに30分会話を続けるのに1学期を要したのだ。おばちゃんは良い人だと村上は知っていたが、おばちゃんとの会話に成功して良い関係を築くのに平均的な小学生の子供たちは、彼らの倫理道徳観から一歩踏み込む必要があった。状況から判断して、おもちゃの店チャッピーを今以上に繁盛させるには子供たちがひと目で黙ってしまう品揃えが必要だった。「 機動戦士 ガンダム 」のテレビ 再放送 が始まり ガンプラ熱 が 急上昇 していた 1980年、バンダイはその生産が追い付かず、子供たちは ガンプラ 購入券 をおもちゃ屋店頭でくじ引きさせられたり、ガンプラを不人気な過去の商品と抱き合わせで買わされたりするような状況で、全国的に子供たちはガンプラを手に入れようとすると悲惨な思いをしていた。

 
---- 決戦は日曜日 ----
販売店割当枠 があるので チャッピー にも ガンプラ は入荷したが、直ぐに売れてしまうと次の入荷まで店内に 目玉商品 がなくなってしまうのである。村上は 品川区域 の ガンプラ流通 は単独のおもちゃ屋が 火、水、木のいずれか曜日の午後4時前後で、くじ引きありきの イトーヨーカ 堂 を初めとするストアーは土曜午後の品出しであると知っていた。商品流通は川の流れのように行かないので常にどこかに水が届かない空間ができる。つまり日曜日の午後に人気のガンプラはどこの店からも姿を消すのである。そこで村上はおばちゃんに日曜日の午後までガンプラを店頭に出さないように提案した。おばちゃんは半信半疑だったが村上のやり方を実行してみた。これが当たり、おもちゃの店チャッピーの日曜日の午後は、お小遣いを使い果たす寸前の子供たちが集まり、買えないガンプラを眺めて満足したらカップ焼きそばを食べて、アーケードゲームをして残り僅かなお小遣いを確実に使い果たさせた上で、次の週が始まると親同伴でガンプラを買いに来るサイクルが成り立ち始めた。チャッピーの店内に親同伴で子供たちがガンプラを買いに来そうな月曜日はおばちゃんにハイライトは店の外で吸ってもらうことにした。

 
---- ロボダッチ作戦 ----
様々なおもちゃが市場に溢れる中、子供たちの第一印象から長年の記憶にまで残るものは数少ない。 ガンダムのプラモデルは プロモデラー や少年少女モデラーたちがコンテストに出すのでなければ、一度作ってしまえばガンプラを飾って終わるか、パッケージに仕舞って終わるかのどちらかが 平均的な子供たちの 消費行動 だった。今井化学から発売されていた 「ロボダッチ」 は一味違ったプラモデルキットだった。 ロボダッチ は組み立て途中から遊びが始まり、子供たちが集まると遊びがお開きになる最後まで遊んでいる おもちゃ は ゲームウオッチ ではなく ロボダッチ だった。しかし、1981年 のおもちゃ屋店頭で ロボダッチ シリーズは子供たちの記憶の谷に落ちていた。この年、全国のほとんどのおもちゃ屋はガンプラ熱に巻き込まれていた。 ロボダッチは全国のおもちゃ屋にも軽視されていた。品川 / 大井 / 戸越 / 中延 / 西小山 区域では大井町駅前の 東口おもちゃ屋 を除く全てのおもちゃ屋がロボダッチは 低価格商品 しか置かなくなっていた。
 
今井化学 の ロボダッチ は 宝島 と 戦艦島 が 高額商品 で子供たちにとって遊び甲斐があるけど高額でなかなか手が出ない商品だった。現在ではオリジナルの 今井化学 初代 のキットに数十万円のプレミアが付くのに、当時は平均的なおもちゃ屋はロボダッチではガンプラに勝てないと判断し、ロボダッチを仕入れなくなっていた。そこで村上はチャッピーの店奥には必ず 宝島 と 戦艦島 を展示してもらうようにおばちゃんに促した。するとこの 高額 ロボダッチ が定期的に売れるのである。高額ロボダッチ を親同伴で子供たちが見に来るので、チャッピーのおばちゃんは火曜日から金曜の午後もタバコを店内で吸えなくなったが、店内で落ちる金が店頭のアーケードゲーム台の売り上げに追い付いてきているのがロボダッチを含むプラモデルキットの売れ行きから分かった。

 
--- 持ち帰りゲームセンター ---
1982年 に任天堂ファミリーコンピュータ ( 通称: ファミコン )  が発売されてもチャッピーのロボダッチ人気は続いた。任天堂のファミコン戦略として、おばちゃんにはファミコンでソフト化されているゲームのアーケード版を店頭のゲーム台に入れてもらった。任天堂の「ドンキーコング」、日本物産の「マグマックス」、アイレムの「スパルタンX」、コナミの「グラディウス」、テクノスジャパンの「熱血硬派くにおくん」などの大人気アーケードゲームは追いかけてファミコン版ソフトが発売されたからである。店内には店頭のゲーム台のファミコン版を在庫してもらうと、これらファミコンソフトが良く売れるのである。小さなおもちゃ屋がファミコン商品で 大手家電量販店 や 博品館 に 真っ向 勝負 しても 販売価格 で負ける可能性が高いのだが、大手店舗で ファミコンソフト の オリジナル アーケードゲーム を売り場 で楽しめる店舗など何処にも存在しなかったのである。おばちゃんに 両替 用 の 50円玉 を コインホルダー に詰めてもらってレジ横のテーブルで子供たちの目に入るようにしてもらい、店中に入ったらおばちゃんが 両替 してくれるのだと子供たちの脳裏に植え付けた。店頭にあるアーケードゲームのファミコン版はおもちゃの店 チャッピー で安心確実な営業利益になって行った。
 
ファミリーコンピュータソフト は アナログ時代 に既に 多用途型モビルスーツ である ガンダム の様にさまざまなイメージに形を変えて子供たちの脳みそに浸透していった。ファミコン裏技 はゲームソフト会社がソフト開発時に予め仕組んでおいた機能を 雑誌社 が既に発売されたソフトが売れなくなって来た タイミング で発表する隠れ機能である。
小学館の コロコロコミック はいち早くファミコンソフトの 裏技特集 と 裏技マンガ に着手した。少年ジャンプ もTV放送で「北斗の拳」が始まると「ファミコン神拳」と称する特集ページを用意して挙ってファミコンソフトの裏技 ( 隠れ機能 ) とゲームの攻略法を特集した。これら紙面に特集されている裏技はゲームソフトの 取り扱い 説明書 には載っておらず、裏技 を使えば特別な攻撃法がゲーム上に新たに出現したり、プレーヤーが不死身になったり、ゲーム上に隠し扉が現れたりとファミコンにハマっている子供たちは興奮して頭が麻痺寸前になるほどだった。結果、いわゆるファミコン裏技ソフトは高い需要が出て、コナミ「グラディウス」、ショウエイシステムの「北斗の拳」、任天堂「スーパーマリオブラザーズ」、エニックスの「ドラゴンクエスト2」、ハドソンの「スターソルジャー」、ナムコの「ゼビウス」は量販店でもリバイバル大人気となった。麻痺 した 脳みそ に刻み込まれた 裏技 は さざ波 の様に子供たちの ゲーム欲 として何度も帰ってくるのである。出版各社 はここまでの影響を考えていなかったのかもしれないが、子供たちの一部は更にゲーム中心の生活に誘導されていくことになる。チャッピー ではこれら裏技含有ソフトをファミコン神拳が載った少年ジャンプの発売に合わせて入荷してもらい安定売り上げに繋げていた。


 
--- モビルスーツバリエーション ---
「 機動戦士 ガンダム 」一年戦争編 のプラモデルが一通り出揃った 1982年 1月 に関東の有名スーパーで悲惨な事件が起きた。ガンプラのくじ引きで並んでいた子供たちの列がエスカレータ上で倒れて一部の子供たちが大けがしたエスカレーター将棋倒し事件である。メーカーの生産事情はあるのだろうが多くの子供たちがガンプラを求めて怪我をしたのだ。この時ほど村上は自分がガンダム工場になれればと思ったことはない。 
悲惨な 流通事情 を横に置いて、ガンダムの プラモデル は独自の進化を遂げていた。バンダイは 1983 年 から「 機動戦士 ガンダム 」の小説に登場する派生型モビルスーツのガンプラ版を発売し始めた。モビルスーツバリエーション ( 通称: MSV ) である。それ迄のオリジナルガンプラと違い 新規デザイン 金型 で 形成商品化 されるとあって大人から子供まで MSV は発売前から 模型情報 誌面上 で大注目となっていた。バンダイのガンプラ生産能力の限界から、バンダイは関東地方では流通ルートを今までの小売店重視型から大型店舗優先型に変更して来た。小売店の 販売網 を重視すると十分に商品を流しきれなくなり、また事故のもとになりかねない可能性から、MSVは 大手 デパートを 中心に出回り始めた。そして品川地域のおもちゃ屋に MSV は中々入ってこなかった。小学生たちは MSV が町のおもちゃ屋さんで手に入らないので頭がおかしくなりそうだった。


--- 幻のパーフェクトガンダム ---
子供たち大注目の MSV シーリーズ の中でも、講談社の コミックボンボン で大人気になった 「 プラモ狂四郎 」 の主役: 京田四郎 が劇中で操る パーフェクト ガンダム  ( MSV #14 ) は発売前から、様々な雑誌にプロモデラー達の試作品が特集され、1983年の夏、小学生たちは パーフェクトガンダム で熱狂していた。村上も1/44ガンダムを元 に各パーツをフルスクラッチで作ったパーフェクトガンダムを夏休みの宿題として提出したほどだった。
 
ベビーブーム 頂点 で生まれた村上の学年は3年後の 中学受験 も 熾烈 を極める目算が出ていた。仲間たちは4年生になると同じ教室の中で 中学受験組 と 公立中学組 に目に見えない線で分けられ始めた。中学受験用の 特訓授業 を教室で行っている間、公立中学校組 は 視聴覚室 で映画を見せられていた。放課後、中学受験 組 は新に塾通いが生活に追加されて ガンプラ のことを考える事すらあってはならないと言う雰囲気になっていった。中学受験組の子供たちの心は、親の期待 と 自分の青春の狭間で心が引き裂かれる寸前で日々過ごす者が大勢いた。ガンプラは発売以来、子供たちに大人気だったが、その希少性と嗜好性の高さから一部の親達は欲しがる子供たちからガンプラを引き離そうとした。仲間たちの小学校の思い出が潰されて行くのを見ていられなかった村上はこの時、自分がおもちゃ屋になると決意した。
 
1984年5月、バンダイは遂にその パーフェクトガンダム を 1/144 スケール で商品化すると発表したのだが、実際の発売は延期されて行く。大人気モデルのため当初発売予定だった6月1日より更に1か月遅れて品川区域で発売になった。村上は南品川に移ってから集積してきた 流通データ から 都内 の デパート と区域のおもちゃ屋で比較的ガンプラを在庫出来ていた店舗を中心に周り、実際の都内の パーフェクトガンダム 発売日の7月6日金曜日の第1週出荷で13個確保した。学校で欲しがっていても親の手前 、「 パーフェクトガンダム が欲しいんだ! 」と言い出せない受験組の仲間たちを優先に村上は友の家を周り行商を始めた。発売第2週には更に16個のパーフェクトガンダムを確保できた。販売店枠があっても、やはりおもちゃの店 チャッピー に パーフェクトガンダム は回ってこなかった。おばちゃんの代わりに村上は自身の仕入れから パーフェクトガンダム 3個 を チャッピー に卸して、日曜日の午後展示を敢行してもらった。村上が自分のパーフェクトガンダムを手に入れたのは第3週目のことだった。村上のおもちゃ屋は利益マイナスの行商から始まったが友の夢に投資する商売方針なので次の年に「 機動戦士 Z ガンダム 」のテレビ放送が始まるとおもちゃ屋を辞められなくなった。

 
---- 小さい自家用車 ----
1984年 にテレビ放送で タミヤ RCカー グランプリ が始まった。技術と知恵 を要するが、組み立てが成功すれば長期間壊れない小さい 自家用車 が完成するとあって、第2次ベビーブーマー に RCカー はすこぶる人気が出た。しかし、小さいおもちゃ屋さんが組み立て式のラジコン ( 通称: RC または キットラジコン ) を安定的に販売するには幾つかの壁があった。まず RCカー を扱う店の店主は キットラジコン を組み立てられて、尚且つお客の ラジコン が故障した時 はその 故障個所 を見つけて 修理 できる必要があった。チャッピー のおばちゃんは手先が器用だったが 電気配線 が苦手だった。次に仕入れの問題である。ラジコンキットは 設定価格帯 がファミリーコンピュータ の本体並みに高かった。子供たちは組み立てキットだけでなく 送信装置 ( プロポ ) セットと 走行用 バッテリー と 充電器 が揃って初めて自分の小さい 自家用車 を走らせることが出来るのである。概算して当時 RCカー を始めるのに子供たちは最低でも2万円を用意する必要があった。おもちゃの店チャッピー に来る子供たちの 平均的消費行動 が 地球圏 の内側とすると、キットラジコン の価格帯は 金星 の 衛星軌道上 あたりにあった。
 
チャッピー のおばちゃんはそれでも RCカー を扱いたいと言うので、村上は販売に当たって最低限、送信機 が無いと子供たちが期待するように RCカー は走らないと説明した。するとおばちゃんは「 プロポって何? プラモと違うの? 」と返答した。そこで、村上は1セットだけ タミヤ で人気上昇中で一番安い「 グラスホッパー 」をプロポ付きフルセットで店頭に飾ってもらった。やはり中々売れなかったが、タミヤからグラスホッパーの同型車種でRS540モーターを搭載した「 ホーネット 」が発売されたタイミングで親子連れがチャッピーのグラスホッパーを買いに来た。チャッピーではこのRCフルセットを入荷させてから販売完了まで6か月のターンオーバーを要した。RCカー は チャッピー ではリスク高めの商品であるとの結論も出た。このリスクを回避してチャッピーでRCカーを扱うには 地球 から 金星 に行ける 財力 を持っている 大人達 をチャッピーに呼び込む必要があった。
 
任天堂 ファミリーコンピュータ の本体同様、RCカー のキットもプロポとのセットも価格帯が家電並みに高いので、秋葉原 電気街 が 本体キット、プロポ、バッテリー、充電時をまとめた RCカーフルセットを  メーカー 希望小売価格 の2割~3割引で販売していたことで、関東の RC市場 は 秋葉原 が席巻していた。タミヤを初め 京商、YOKOMO、ヒロボー、マルイ、ニチモ などの RCカー ブーム は大きい波だった。しかし、RCカーは関連商品に至るまで高額なので おもちゃの店チャッピー で扱うにはリスクが高かった。
ラジコン の 聖地 となっていた 秋葉原 にも 盲点 はあった。それはラジコンのチューニング部品である。秋葉原は割引率が高いことが 仇 になり人気商品や部品は地域のおもちゃ屋より売り切れ易いのである。そこで村上は チャッピー に タミヤ テクニパワー RX540SD モーター の単品セット、タミヤ 急速充電器&バッテリーセット そして 美しいアルマイト加工で人気上昇中 だった タミヤ ホーネット、フォックス、ホットショット 用 の  ユージー プロダクト の 前後 アルミ オイルダンパー セット を常時在庫してもらいレジの近くに飾ってもらった。おもちゃ屋の仕入れ枠が功を奏して、秋葉原 やラジコン専門店の 大一堂 で売り切れている 人気 RCカー 部品 をチャッピーなら常に手に入るように出来た。こうして、月に行ける アポロ計画 級の大人達は チャッピー に集い始める。彼らは割引なしの メーカー希望価格 でも喜んで品薄の高額 RCカー 部品 を買って行くのである。


 
---- ハイパワー心臓 ----
タミヤ の テクニパワー RX540SD モーター がどれだけ凄いモーターか村上は知っていた。この頃、村上の父安はある事件が原因で徳洲会を離れ自ら 中国茶 を扱う 貿易会社 を 設立 したばかりだったが、忙しいスケジュールの中、タミヤ 「 ホットショット 」を一緒に組み立ててくれたのだった。父安は模型の組み立てが得意だったがキット付属のリアデフギアが 不良品 でギヤ部が細くなっていた為、テクニパワー モーター で武装した村上の ホットショット はバッテリー1本分走り終わる約5分の間に鋭い摩擦音を立てながら走り続け、リアデフギア の歯が削り取られて4輪駆動のホットショットが前輪駆動になってしまった。
樹脂ギアを削り取るほどこの テクニパワーモーター は力があったのである。大一堂 のおじちゃんと リアデフ ギア を健全品に交換し修理完了した
村上のホットショットは 立会小学校 隣の 大井公園 で走らせるには速すぎて危険だった。おもちゃの店 チャッピー には テクニパワー モーター のデビューの次の年に 8.4ボルト 電圧 に対応して 更に パワーアップ されて登場した タミヤ テクニゴールド RX540VZ モーター に切り替えて店頭展示してもらった。現在ではプレミアム付きで発売当初の10倍の値が付くほどのハイパワー 心臓 を求めて子供から大人まで RCカー マニア 達 から一時期このモーターは店頭で幻のモーターと認知されていた。

 
- 街の組み立て屋さん -
小学校6年生 の 夏休み の終わり、石川県 白川市 の マザーランド・アカデミー・インターナショナル の アフリカ 活動報告 講演 から 品川 に戻ると 村上大志 に仲間たちから電話が掛かって来た。親が助けても自分でやろうとしても、RCカーを完成出来ないので村上に組み立ててもらいたいと言いうのだ。村上が チャッピー で恐れていたのはこの事態だった。タミヤ模型 の説明書にも書いてあるが「RCの組み立ては慣れた人にお願いして下さい」なのだ。 野菜のことは「スーパーアキダイ」の秋葉社長が答えてくれるが、RCの組み立て方を おもちゃ屋さん に聞いても子供たちが陥っている問題に答えられるおもちゃ屋は当時非常に少なかった。
​タミヤ模型のRCカーは精巧な設計が良かったが、子供目線から観ると、実車並みの 駆動構造 の 部品 たちを目の当たりにして、子供たちはまず車生産工場の工場長としての責任が発生する。組み立てを失敗すればその子供の車会社は倒産である。次にプロポのシステム構造である。子供たちは 無線機 で送信された信号で小さいモーターが内蔵されたサーボがどうして 遠隔操作 できるのかを見えない 操作系統 からイメージすることが難しかった。そして 高電圧 高電流 の バッテリー とデカい540サイズモーターの 怪力 にも 通電 する度に子供たちはビビらされていた。結果的に、小学生でRCカーを完成まで辿り着ける者は少なかった。模型作りが得意な村上でさえも小学校4年生 時にタミヤ「 ワイルドウイリス 」の組み立てに失敗してから短い間に多くの挫折と高額散財から来る恐怖心を経験していた。

 
タミヤ「 ホットショット 」のギアボックスの修理を成功させてRCの組み立てにようやく慣れてきた村上は友人たちの家を周りRCの組み立てを続けていた。小学校6年の秋、村上は自身のRC史上最も困難な挑戦をした。タミヤ「 ハイラックス ハイリフト 」の組み立てである。この車両は遠隔操作で車両を走行させながらギアを 3段変速 と 2輪駆動 から 4輪駆動 に切り替えられる タミヤ初代 ハイラックス 4X4 にトルク重視の RX750 モーター を搭載しバッテリーを含めた車両総重量4.5kgのほぼ 実車のトヨタ ハイラックス に近い構造の車両だった。宇都宮邸の貯金が底をつき、村上の父安の貿易会社でお茶詰めのアルバイトをして村上は捻出した投資で先にお買い得だった3チャンネルプロポを手に入れていた。タミヤ「 ハイラックス ハイリフト 」が発売された時に残りの貯金を費やした。夕食を自費で食べていた村上にとって組み立て失敗は許されなかった。
 
バンダイやアオシマ文化教材社や今井化学などの部品点数が少なく完成品のイメージが想像しやすい キャラクター プラモデル の説明書に目が慣れていると、小学生がタミヤの組み立て説明書に付いていくのは大変だった。例えば図1で正方向を向いている対象物が図2では反転して逆方向を向いていたりする図面の進み方である。タミヤの RCカー を完成させるには子供たちは見慣れない実車並みの精巧な部品たちを頭の中で 整理 して 柔軟 に焦らず 各部品 を見定めて組み上げ続ける必要があった。RCカー の組み立ては小学生に常に高い 集中力 と 想像力 を要求するので、ビデオゲーム を プレイ するように受け身で向き合うわけにはいかないのだ。
 
タミヤ「 ハイラック スハイリフト 」は デファレンシャルケース も トランスミッション も金属製なので1本でもネジをなめたらそれまでの投資が水の泡と消える。村上は経験して来た失敗に起因する恐怖心と向き合いながら車両を組み上げていった。ヘッドライトに点灯加工を施して10月の初旬に村上はハイラックスハイリフトの組み立てを完了し青物横丁から大井公園まで1本の 6V4000mA バッテリーで往復約1kmの自力走行を成功させて試運転を完了した。
 

- 更に小さな自家用車 -
2020年代 に入り、スーパーで買える対象年齢15才以上の食玩がまだ無かった1980年代 に、タミヤ模型は有難くミニ四駆と言う、ラジコンキッズ達がバッテリーを充電する スキマ時間 に楽しめるお手頃キットを売り始めていた。ミニ四駆は価格帯が低いので、チャッピー には人気が出始めていた「コミカルミニ四駆」全種類を1セットずつとまだ発売が始まったばかりのレーサーミニ四駆の人気チューニング部品とキットを1セットずつ常時店頭在庫してもらった。タミヤミニ四駆は1990年代から現在まで世界中で爆発的人気商品となって行く。
 
タカラ の チョロQ は 1980年代 に独自の進化を遂げていた。ユーザーが選んだ部品を組み替えることで手軽に愛車を創れるチューンアップチョロQ PROが 1985年 にリリースされた。この チョロQ はエンジン搭載位置を変えることで前輪駆動、後輪駆動そして前後両方にそれぞれエンジンを組み込んで四輪駆動のチョロQを創れるのである。令和になった現在でも2つの異なるゼンマイエンジンをシンクロさせてまるで、「りくりゅうペア」のように走るおもちゃの車は存在しないのだ。チューンアップチョロQ PRO は エンジンとタイヤのオプションパーツセットも発売されて人気を集めた。村上はこのチョロQでポルシェ959を創り、学校と撮影現場に持ち歩いていた。パリダカールラリーでも優勝していた ポルシェ 959 は多くの子供達にとって夢の車だった。チューンアップチョロQ PROはチョロQシリーズの中で高額だったが子供から大人まで良く売れた。
 
1986年になると大人が飾って楽しめる チョロQ が出現する。村上が中学2年生 時に2回目のアフリカ渡航時に使っていた スーツケース の デザイナー であるドイツ人の ルイージ・コラーニ がデザインした チョロQ が発売された。マリオ の 兄弟の ルイージ に似ている コラーニ氏 のデザインだったが、デザインが大人向け近未来デザイン過すぎて子供受けしなかったが チャッピー の店先に飾っておくとタミヤのモーターを買いに来るRCコア客に良く売れた。高額チョロQはRC商品やその他現物おもちゃと自然な形で抱き合わせ販売が成立し おもちゃの店 チャッピー に定期的に 福沢諭吉 を連れてくるようになる。

 
- 狙いを定める -
1980年代 後半、子供たちの間でガスガンも流行りだしていた。ハンドガスガン人気の中で ウエスタンアームズ ( 通称: WA )の コルト ガバメント コンバット カスタム と刑事ドラマの金字塔である「 太陽にほえろ 」で 神田正輝 扮する ドック刑事 が使っていた人気モデル、スミス・アンド・ウエッソン M59 の後継型をガスガン化した MGC の 459 と 659 を チャッピー に仕入れてもらい店頭展示した。この3種類の ガスガン の人気チューニング部品で純正品 バレル (弾が通る銃身) より0.01~0.02mm細めることで命中効率を上げられる タイトバレル と命中精度が高い金属が含有されたライフル用重量弾を渋谷のWAやMGCに行かなくても チャッピー で手に入るようにしてもらった。地域の子供から大人まで「え?なんでこんな所にこんな物が売ってるんだ!?」と客の痒い所に手が届くおもちゃの店 チャッピー は進化して行った。
​

 
---- 無限の可能性 ----
中学校1年で芸能界入りした夏休み、村上はデビュー前 レッスン と マザーランド・アカデミー・インターナショナル の講演会で日程が忙しくなりつつあったが 6年2組 で仲間だった柄沢のタミヤ「 ファルコン 」と山村のタミヤ「 ブーメラン4WD 」の組み立てを手伝い二人の小さな 自家用車 を完成させた。芸能活動 がこれから忙しくなると分かっていた村上はこの夏RCに一区切りつける決心をし、静岡県のタミヤ模型サーキットで開催された 秋葉原 十字屋 カップ にタミヤ「 ビッグウィッグ 」で参戦しクラス3位で表彰台に立った。翌 1987年 は年明けから村上は ハンドモデル になり所属事務所から左手に保険を掛けられていたが、起こり得る切り傷を覚悟の上で、頼まれていた親友山村の弟のタミヤ「ストライカー」を組み上げて、自身はRC 生活 最後 の 記念 に タミヤ「 ポルシェ959 」を完成させた。
 
RCは技術的に無限の可能性がある。村上の祖父徳太郎が開いた東光書院の塾生で太平洋戦争中、陸軍の空挺部隊の隊長だった元外務大臣の 園田直 は筋金入りのRC飛行機の愛好家だった。幼い村上は 東光書院 の庭で強面のおじちゃん 園田直 が飛ばしていたRC飛行機を見ていた。園田の操縦で優雅に着陸するRC飛行機は 羽田空港 に着陸する YS-11 の本物のようだった。まだ エンジン が温かい機体を眺めながら村上が「人が乗れれば本物だよ」と呟くと、園田は大きな手の平で村上の頭を撫でてくれた。タミヤを初め日本の模型メーカーがRCを生業にするには郵政省が管轄する 電波帯 の取得が必要不可欠だった。園田はRCの未来を切り開き成長させるため自ら郵政省の官僚と直談判して 27MHz と 40MHz 電波帯 をRC専用として確保させた。正にこの 27MHz 電波帯 が無ければ 1980年代 に村上と同じ世代の仲間たちに RCカー ブーム は起こらなかったのである。園田直 は 日本化学模型安全委員会 の 初代 会長 を務めた。村上が1986年夏に 十字屋 カップ で使用した プロポ は 園田直 が愛用していた同じ 近藤化学 製 プロポの EX-9 だった。しかし子供も大人も継続してRCを研究し、より良い発明に繋げて行くには1日24時間あっても足りないのである。
​

 
- 3.5 インチ フロッピー ディスク -
村上大志が中学に上がり芸能の仕事をこなすようになっても村上はチャッピーにカップ焼きそばを食べに通っていた。村上は雑誌からの情報以外にも芸能の仕事仲間から様々な情報を得られるようになっていた。1987年 春に TBS系連続 ドラマ で共演し、その年の秋からも連続ドラマで共演するようになった 石堂譲 から村上はファミリーコンピュータ ディスクシステム の家庭用 ディスクライター 基盤 を紹介された。アーケードゲーム専門の村上ではあったが株式投資から子供のおもちゃまで幅広い知識があった石堂の勧める商品なので、そのディスクライター基盤を石堂から購入することにした。任天堂ファミリーコンピュータディスクシステムは現在では歴史上の化石となっているフロッピーディスクをゲームソフトとして使用することで当時低価格で複数回新しいゲームをフロッピーに書き込んで遊べる代物だった。子供たちは喜んでおもちゃ屋に通いゲームを格安で書き換えて楽しめるとあって一時期流行っていた。村上が 石堂譲 から購入したライター基盤はおもちゃ屋に行かなくても家庭でゲームの書き換えを可能とするビックリ商品だった。村上は実際にその家庭用ディスクライターを家で試してみたのだが、フロッピーディスクの特性もあるのか、ライティングを完了できる時と出来ない時があった。正規 任天堂 ディスクライター でゲームを書き込んだディスクも持ち運ぶだけで中身のデータが飛んだり、システム自体の信頼性が低い事に気づいた。
 
街のおもちゃ屋にはおもちゃメーカーから頻繁に営業が来る。おもちゃの店 チャッピー にも 任天堂 から ディスクシステムライター をただでさえも狭い店内に置いてもらうように毎週営業が押しかけてきていた。任天堂ディスクライターはおもちゃ屋がリースしてもリース代で大きい負担が発生するので、チャッピー には不利であると村上は判断していた。ファミリーコンピュータ 全盛期にメーカーの営業を断ることは殆どのおもちゃ屋がしなかったが、小売店の将来を考えない営業自体が地域に不利益と考えていた村上はおばちゃんに ディスクシステムライター を置かないように促した。その代わり古くなっても飽きの来ない老舗ソフトと裏技含有ソフトの、グーニーズ、アイスクライマー、ゼルダの伝説、ドルアーガの塔、ファイナルファンタジーを常時在庫してもらった。小売店にとって一時期の利益より長期の安定した小さい黒字が大事なのである。大容量カセットソフトの出現やフロッピーディスクの容量限界などの問題から任天堂ディスクシステムは発売から数年で急速に下火になって行った。1990年代 にセガサターンや ソニー プレイステイション が発売されて家庭用ゲーム機全盛となっても、一部地域で人気が途絶えなかったロボダッチと老舗裏技ゲームソフト、人気上昇中のミニ四駆、大手販売店では手が届かないゲームソフトと現物おもちゃの品揃えでチャッピーは繁盛していた。RCパーツのタミヤテクニゴールドモーターの進化版のダイナテックモーター、アクトパワーTRFモーターは売れ続けた。

 
---- 旅立ちの時 ----
村上大志は 1994年 にアメリカに渡って経済学の勉強を始めると日本に帰れなくなり小学校の頃の様にチャッピーに行けなくなった。南品川で母親代わりだったおばちゃんにも中々会えなくなった。1998年の春休み、村上がアメリカ留学から一時帰国していた時に車で旧東海道の チャッピー の店前に差し掛かった。自転車で仕入れ帰りの チャッピー のおばちゃんと店の前で目が合った。久しぶりでしかも車を運転するようになった村上は「気づかないかも」と思いながらもおばちゃんに手を振った。おばちゃんは「あー」と言う顔をして村上に手を振り返してくれた。旧東海道は一方通行で後ろから車が来ていたので自分の車を停めておばちゃんと話することが出来なかった。このすれ違いがおばちゃんと村上の最後の挨拶になった。春休みの終わりに 成田空港 を 離陸 する ノースウエスト 航空 20便 の窓から 房総半島 の端が見えた時、村上の心は急に寂しさに包まれた。この年おもちゃの店チャッピーは店じまいする。 村上は 卒業プロジェクト と 卒業論文 を完成させて 大学卒業 後の 就職 準備をするため日本に帰って来れなくなる。

---- 未来に繋がる宝島 ----
子供に良かれと思った親の施しは必ずしもその子の役に立つとは限らないのです。子供たちは毎日親に 感謝 して朝を迎えようとしていますが、親の施しが意図せず 虐待 の結果になることもあります。子供たちの心は人知れず引き裂かれることもあります。親が子供に寄り添えなくても、おもちゃたちはどんな時でも 無条件 に子供たちに寄り添っています。
おもちゃは人を優しい気持ちにしてくれます。それはおもちゃたちが大切にされても、忘れ去られても、お別れの時まで 無条件 で子供たちに寄り添うからです。子供だった頃のおもちゃたちとの時間は無駄ではないのです。広告の紙で作った 紙飛行機 も誕生日プレゼントに買ってもらったファミコンソフトも、子供たちに安らげる場所を作ってくれていたのです。

おもちゃたちから感じた優しさや、夢や、隣の 友達 の 笑顔 は 本物 だったのです。心の何処かに今もあるおもちゃと遊んだ思い出は未来に新しい夢を創り出します。忘れてしまっても心の何処かにおもちゃたちとの思いでがあるから、私たちは今日も誰かに寄り添えるのかもしれません。誰かの夢も、おもちゃたちの夢も、自分の夢も皆等しく尊いのです。おもちゃを創るメーカーとおもちゃ屋さんとおもちゃを買いに来る子供たちが繋がる場所は宝島です。おもちゃたちが示していた 無条件 と 慈悲 を私たちの心の中に見つける場所として。

マザーランドアカデミーインターナショナル
創設代表: 村上大志


国際協力義援金、『美穂の森』のご支援は

郵便振替 00100 - 4 - 186743

マザーランド・アカデミー


までお願いいたします

マザーランドアカデミー
インターナショナル
本部事務局は

埼玉県 比企郡 嵐山町 に移転致しました

東京都 品川区 南品川 5-16-14 の
マザーランドアカデミーインターナショナル
品川事務所は2025年3月本部事務局に集約されました




2026年度 / 2027年度

国際救援物資の受付日、受付要綱は


往復はがきにて下記までお問い合わせをお願いいたします

現金書留による国際協力義援金の郵送は



〒355-0299

埼玉県 比企郡 嵐山町

菅谷
7 - 1   私書箱 5号

マザーランドアカデミーインターナショナル

までお願いいたします

私書箱では物資の受付けはしておりません


昨今の国際情勢による
船舶燃料サーチャージ増加の為
国際支援物資輸送協力費は
縦横高さの合計105cmの段ボール箱
1箱に付き¥3,650をお願いしております
105cmの箱の大きさを1cm超えるごとに
1cmにつき¥100の追加となります


お米の国際支援物資輸送協力費は1kg
につき¥239をお願いしております

​どうぞよろしくお願い致します



​
お振込みでの国際協力義援金のご支援は


ゆうちょ銀行

店番019 (ゼロイチキュウ)

当座  0186743

マザーランド・アカデミー


までお願いいたします

新規 国際協力プロジェクト、サハラ砂漠植林事業

世界の田んぼプロジェクト
​
国際協力遺産贈与のご相談はメールにて
​下記までお願いいたします


motherlandacademyint.sm@gmail.com

24時間 / 365日受付いたします

お電話でのお問い合わせ 0493-24-2980
又は 03-3450-5829
受付時間 (土日祝日-年末年始を除く): 21:00~22:00
(昼間は救援物資搬入 / 輸出作業のため)
FAXでのお問い合わせは: 0493-24-2955 (24時間受付)
- 2026 / 08 / 30 更新 -
©2026 All Rights Reserved.

  • Home
  • About
  • Project
  • Episode
  • 宝島作戦
  • Side Stories
  • Contact