マザーランド アカデミー インターナショナル
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ひと一人一人の人生は偶然の積み重ねのように感じれることがあります。偶然の積み重ねの中で、自分が誰かの寄り添いになることも、また誰かが自分に寄り添ってくれることも奇跡なのかもしれません。人それぞれの寄り添いの心マザーランドはそんな偶然から生まれるのだと思います。また奇跡のような偶然の一つ一つは、ふと立ち止まって振り返ってみればみな必然なのかもしれません。
Episode…ご紹介、
マザーランドアカデミーインターナショナル
理事長  村上祥枝


--- えんぴつ一本から愛運動 ---
1983年4月 マザーランドアカデミー が発会して最初の春、会合で、「使い終わった短い鉛筆とかあげたら喜ぶんじゃない?」と母親のひとりが提案した。会合では、品川区 難民救済センター に当時ベトナムから来ていた子供たちが日本の学校に編入するにあたり、マザーランドアカデミー で何かあげようと言う事になっていた。村上大志 は自分も鉛筆を短くなるまで使っていたが、お友達に使い古しをあげるなど考えられなかった。
「なんとかして使い古しの鉛筆を新品に変える方法はないか」と模型作りが趣味だった村上は使い始めていた瞬間接着剤で短い鉛筆同士を接着してみた。つなぎは悪くなかったが、漢字練習で少し指に力が入ると直ぐに折れてしまった。新品の鉛筆のようにつなげた鉛筆で強度が出せないかと、村上は行きつけの大一堂模型のおじちゃんに相談した。競技用ラジコンカーの足回り制作を得意とするそのおじちゃんは「村上君、2mmの竹ひご使ってみたら?」と教えてくれた。そして竹ひごを買って帰ってきてはみたが、どう使うかが大一堂のおじちゃんの独特な言い回しから理解不能だった。そこで村上は鉛筆の見取図を描いてみた。すると、鉛筆の芯はほぼ2mm直径で芯の隣に2mmの穴を開けられれば、2mm直径の竹ひごを埋め込めることに気づいた。
「これなら行けるかも」と村上は学校で図工の小宮教諭に相談して2mmドリルビットを装着した電動ドリルを借りて、繋げる鉛筆の両端に竹ひご用の穴を開けて、竹ひご接合 HB鉛筆 第1号 を完成させた。トンボと三菱の合成鉛筆だったので見てくれは悪かったが漢字練習をしても折れなかった。外見を子供受けするためにはと考えると、当時お土産屋さんに売っていた和紙巻き鉛筆を思い出した。しかし、和紙 は高価だった。つなぎ再生鉛筆を大量生産するには和紙に代わる安い素材が必要だった。そんなある日、村上が切らしていた白の化繊糸を買うために蒲田の ユザワヤ に行った時だった。店内でいつも目に止めない布地売り場に目が行った。布地は沢山の柄があり何より布は和紙より格段に安くて驚いた。「これだ!」長さ3mの布地を買えば全長18cm前後の再生鉛筆を250本余りも巻けるのである。
あとは移動式の作業所と子供たちと親たちがスキマ時間に作業できるシステムを作ればよかった。三菱鉛筆 大井本社 に マザーランドアカデミー の活動の趣旨と再生鉛筆の見取図を見せて相談してみると、鉛筆の芯をオフセットして竹ひご穴を開けられる専用のドリルベースを3セット作ってくれた。村上は4年2組のクラスメイトたちに力を借りて、集まった使い古し鉛筆を種分け接合するイベントをマザーランドアカデミー広報誌に載せて町々に配り、新聞に取材してもらって全国に鉛筆の募集をかけた。村上のクラスメイトの宮は秋に転校してしまうのだが立会小学校の校舎玄関に 鉛筆募集箱 を置いてみようと発案してくれた。
ドリルセットをマザーランドメンバーの家族で使い回し、寝る前の時間に作業をして、再生鉛筆イベントが新聞記事になってから1か月で1,500本余りの再生鉛筆が完成した。ここで子供たちに新品の鉛筆1 ダースを持って来てもらい再生鉛筆1本と交換した。集まった新品鉛筆をマザーランドアカデミーの子供たちは品川区難民救済センターに届けた。「鉛筆1本から愛運動」は子供たちが発案して支援が必要なお友達に贈り物をした最初の活動となった。


--- 真実のサンクチュアリ ---
1975年11月 村上大志 の祖父 徳太郎 は日曜日の座禅と式典のあと、幼い村上の手を引いて東光書院の庭を歩きに連れだした。埼玉県東松山市に緑が原生林のまま残るその庭を見ながら徳太郎は村上に「自然はありのままの姿で嘘をつかない。人の中や人の間に生まれる不条理や争いは人が生み出すものなんだよ」と話してくれた。
徳太郎 の話は村上にとっては言葉の意味は分からなくても真理であるからこそ伝わって来ることは分かりやすかった。徳太郎 は村上に「人は自然のようにありのままに生きられるのが幸せなんだ」と教えてくれた。「空き地でお友達と遊ぶ時、草木や虫たちが友達を思うようにしてくれることも自然だよ」と村上が返すと、徳太郎 は村上を抱き上げて、いつものように頬ずりしてくれた。徳太郎の痛すぎるひげがその当時の村上には不条理であった。

--- 旅立ちと伝承 ---
1977年元日「だいしくん」と言って少し前まで 村上大志 を抱き上げていた 徳太郎 は心臓の持病のため鼓動が徐々に弱ってきていたのだった。徳太郎 は心臓の調子が良い時は寒い冬でも窓を開けて村上と話をしてくれていた。正月の木枯らしが吹く昼下がり、寝ていた 徳太郎 が庭の百日紅の木の下で遊んでいた村上を呼び出した。徳太郎 が呼び出された村上の手を握ろうとしたのが分かったので、村上から 徳太郎 に手を差し出した。徳太郎 は小さい村上の手を握りしめてしばらくすると「たいしくんがやるんだぞ」と言ってまた寝てしまった。徳太郎 が亡くなる11日前のことだった。最後に村上に話した時、徳太郎 は「たいしくん」と「た」に点々を付けずに名前を呼んだ。北米ミネソタで父安の急逝を知らされるまで二度と戻らないと決めていた日本に戻ると決断したのは、村上に 徳太郎 が最後に伝えた言葉が思い出されたからであった。

---「お米一袋から愛運動」---
1984年6月 「鉛筆一本から愛運動」が成功した次の年。アフリカ北部で大干ばつが起きた。南部国境に押し寄せるマリ共和国から逃れてきた難民を緊急支援するために、アルジェリア政府が日本政府に 政府備蓄米 の食糧支援が出来ないか依頼して来た。日本政府は1960年代にアルジェリアがフランスから独立したアルジェリア革命の時もフランスよりの立場を取っていたこともあり、このアルジェリア政府からの支援依頼を退けた。
マザーランドアカデミーの活動を新聞記事で知った在日アルジェリア大使館はマザーランドアカデミーがアルジェリアの難民支援が出来ないかと、救援を依頼して来たのだった。村上大志 は学校でクラスメイトたちに「ビニール袋1袋分のお米を家から持ってこれないか?」と相談した。立会小学校5年2組でクラスメイトの千代田、黒田、5年1組の浅沼 が「大志くんやろうよ!」と村上の手を握ってくれた。他のクラスメイトたち、習い事の友達、またその友達が協力してくれ、子供たちの活動がまた新聞に載った。新聞記事の助けもあり子供たちは3か月で6トンのお米を集められた。
この新聞記事を村上の育ての親の 宇都宮徳馬 が見て電話をくれた。「大志くん、アルジェリアに直接行ってお米を届けてみるか?」と言われた。飛行機にまだ2回しか乗ったことがなく外国に行ったこともなく外国語も全く喋れなかった当時の村上は一瞬迷ったが、二つ返事で「行きます」と答えていた。

--- アフリカへ直行 ---
1985年1月 宇都宮徳馬 がアルジェリアの シャドリベンジェディド大統領 に連絡を取り飛行機を4回乗り継いで 村上大志 はアルジェリア南部タマンラセット郡の難民キャンプに6トンのお米と サンリツ製菓 から寄贈されたカンパン2パレットを届けられた。シャドリ大統領は村上にアルジェリアのサハラ砂漠のオアシスや遺跡を見るツアーを組んでくれて、その時訪れたアドラ郡のオアシスで井戸水でトマトが栽培されていた事がヒントになって、後にマリ共和国の砂漠地帯での植林と砂漠で稲作をする世界の田んぼを実現するキッカケになる。アルジェリア滞在中、アルジェリア赤新月社の紹介で村上はマリ共和国とエチオピアの国連難民キャンプで働くことになる。

--- 命をつなぐサンドイッチ ---
マリ共和国では、中部ガオ市の難民キャンプでエチオピアでは北部メケレ市の難民キャンプで1週間と5日間、村上大志 は国連難民キャンプスタッフの手伝いをした。伝染病と栄養失調が蔓延する難民キャンプでは朝、食事を配膳した5歳の子供が次の日の朝に亡くなる悲劇が連日起きていた。
ガオの難民キャンプでの活動の最後の日にキャンプで友達になった子供達が集まってくれた。村上は渡せる物が何も無かったので、自分が食べる用にアルジェリアを回っていた時に取っておいたアルジェリア航空の機内食のライ麦パンと干し肉のサンドイッチ32本、持っていた全てのサンドイッチをお友達に手渡した。あっと言う間に、サンドイッチは全部なくなった。それでも村上が乗り込んだ車に向かって次々にお友達が、「僕の弟が、お母さんが、家族が死にそうなんだ!サンドイッチもう一つないか?」と訴えて来た。村上の車が人々に囲まれて動けなくなってしまった時、お友達の頼みに全く答えられないその時の村上は無力感に打ちのめされて、車のシートの上でただ土下座することしか出来なかった。この経験が村上が国際支援活動を今日まで44年続ける原動力になっている。
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--- 軽くなる体 ---
アルジェリアのタマンラセットで朽ちた骨と皮になったラクダを見た頃から、普段大食の 村上大志 は食べずに1日中働けるようになっていた。現地で村上は無意識に食べていない人々と同化して働くようになっていたのである。当時の村上は何故食べずに体を動かせるのか頭で分かっていなかったのだが、同じ条件と空間を共有するとそこにいる人々と寄り添える感覚が村上の体の中に芽生えてきたのである。現地の人々と共に活動した結果1人では出来ないことまで出来てしまう体験がこの頃から始まっていたのである。
2月半ばにマリ共和国での活動を終えてエチオピアを目指す頃には村上の手持ちの食糧はカンパン1缶と イギリス空軍 のビスケットパック1つになっていた。しかし、村上はアルジェリアでもマリでも食べなくても働ける日があったので、この先も何とかなるだろうと思っていた。2月下旬にエチオピアの首都アジスアベバから北部メケレ市の難民キャンプへ イギリス ロイヤル エアーフォース の輸送機で出発した。メケレの難民キャンプは山岳地帯にあり、昼と夜の寒暖差が大きく夜は日本の真冬の寒さだった。過酷な状況下でキャンプでは老若男女問わず連日人が死んでいた。朝から陽が落ちるまで働いていたが、村上は自分がお腹が空いたと感じなくなっていた。夜キャンプのテントで次の日のことを考えるとその夜は食べなくてもよい気分になるのだ。その夜はカンパン1つと水を少量飲んで寝たのだった。
次の日も朝日が昇るとまた働くのだが、メケレ4日目で村上の体は更に軽くなっていた。朝アジスアベバから新たにヘラクレス輸送機が到着した。この日もまずは救援テント設営用の巨大柱を飛行機から積み出す作業だった。この日村上は朝から水以外何も口にしていなかったのだが、そのまま作業に入った。村上の足取りは昨日までとは明らかに感覚が違って軽くなっていたのである。昨日までは体の大きいエチオピア赤新月社のミスタータイエーに手伝って貰って持ち上げられていた60kg余りある木の柱をこの日村上は一人で持ち上げていた。助けようとする大人達をよそに村上はその柱の片側を持ち上げて真ん中から肩に乗せて担いでしまったのである。「そうか、真ん中を肩に乗せれば体が小さくても重い柱を担いで歩けるんだ!」と簡単に村上は考えていたのだが、その60kgある柱を数日前メケレに着いた時、体重45kgの村上は動かすことさえ出来なかったのだ。
陽が落ちると電気が無いメケレはすぐ夜になる。その日村上は活動が終わるまで何も口にしなかった。村上はフィルムケースに入れておいた水3本分だけは飲んで寝たのだが、喉の渇きも感じなくなっていた。メケレ最後の5日目は水だけ飲んでお世話になった国連のキャンプスタッフに挨拶をしてアジスアベバ行きのへラクレス輸送機に乗り込んだ。上昇するヘラクレス輸送機の中でメケレの情景が村上の頭の中に映し出されていた。自分が救えなかった命はどれだけあったのだろうと考えると涙が止まらなかった。疲れ知らずで働いてきた村上も実際には疲弊していたのだ。涙を流した後の村上の記憶はアジスアベバ空港についてロイヤルエアフォースの機長に起こされた時まで飛んでいた。アジスアベバに着いてすぐ次の日、村上は日本へ向かうべくローマ行きの飛行機に乗り込んだ。村上がのどの渇きを感じるようになり食欲が戻ったのはこの飛行機の機内食が配膳された時だった。
マザーランドアカデミーとして初めてのアフリカ現地活動で、救援団体としてはあまりにも無力であることを思い知らされたが、村上は「寄り添いが達成された先にはその相手との同化があり、その時体から不思議な力が湧き出てくる体験」をしたのだった。


(  五反田時代  ) ---
--- ララの貯金箱 ---
1977年4月、私立 五反田幼稚園 に入園したお祝いに 村上大志 は 宇都宮徳馬 から『キキララ』のララの貯金箱をもらった。宇都宮徳馬 と父安は 五反田の TOCビル を会議場所にしていたのだった。ララの貯金箱は 当時TOCビルに出店したばかりの サンリオサロンのディスプレーウインドウ の中に飾られていて村上が欲しがっていた貯金箱だった。
「大志くんのお家にはお金が落ちていることがあるけど、落ちているお金は全て大志くんのものだから、この貯金箱に入れておきなさい」と宇都宮からララの貯金箱を渡された。「お金は持っている人のものだよなぁ」と村上は釈然としなかったが、宇都宮に言われた通りにした。誰かそのお金を落とした人が後で出て来た時のために、村上はそれから毎日その日に拾った金額を新聞広告を1/4に切った裏書に書いて宇都宮の机に置いてからお金をララの貯金箱に入れておいた。
宇都宮邸は出前を取ることが多かった。釣銭の100円玉と 岩倉具視 と 伊藤博文 がお盆から落ちても気づかれないことがあった。宇都宮邸で村上は引っ越すまでに30万円余りの貯金をララの体の中に貯めることが出来た。中学に上がって俳優としてギャラを貰うまで食べられない時はララの貯金箱に助けてもらうことになる。


--- ナマコのおじちゃん ---
村上大志 の宇都宮邸での仕事はお金拾いだけではなかった。宇都宮徳馬 の 品川 邸宅には1年中毎日何かしら贈り物が届くのだ。宇都宮の 遼子 おばちゃん から村上は「贈り物で好きなものは全部大志くんが食べて良いからね」と言われていた。代議士宅に届いた贈り物は門外不出であり、村上が消費しなければ廃棄されるのである。
村上の宇都宮邸での食卓は ミノファーゲン製薬 の段ボール箱だった。父安は宇都宮の秘書として忙しく中国とアメリカを年中行き来していたので、祖母の 吉田アヤ が訪ねて来た時以外、村上は1人で食事をしていた。宇都宮邸では朝からお米だけは炊いてあった。宇都宮邸には 錦松梅 詰め合わせから始まってマスクメロン、木箱に2粒しか入らない巨大イチゴ、名だたる高級お菓子折など開けられずに山のように積んであったのだ。
幼稚園から帰ると、村上はその日に届いた贈り物の賞味期限を広告の裏に書いて箱の列に貼り、賞味期限 の早い順に廊下の壁際に積み上げて消費していった。村上1人では消費出来なそうな贈り物は箱から出して、誰から贈られたか分からないようにして幼稚園の仲間たちの家にお土産として持って行った。お菓子は空き地や仲間の家で遊ぶ時に皆で一緒に食べた。
五反田幼稚園 年中 うめ組 に上がった春先に村上は父安に 缶詰 の開け方を習って自分で開けられるようになっていた。村上は 蟹 や 鯨 を夕食のおかずにしてミノファーゲン段ボールテーブルの上でやや豪華な食事ができるようになっていた。ある日、夕食を宇都宮邸の廊下で1人で食べている村上に 宇都宮徳馬 が「大志くん、明日はおじちゃんとご飯を食べに行こう」と話しかけた。次の日、村上が幼稚園から帰ると宇都宮邸前には巨大な センチュリー  が停まっていた。「さあ、行こう」と宇都宮は幼稚園の制服を着たままの村上をその黒塗りの車に乗せた。静かな車で動いてるのか止まっているのか分からなかったが、しばらくすると車は目的地に着いた。
宇都宮に「大志くんは炒飯好きか?」と聞かれたので村上は「大好きです!」と答えた。父安は家にいるときに 胡椒 が異常に効いた 炒飯 を作るのだった。村上と食べる時、安は中華人民共和国 で 周恩来 総理 に振舞われた「ナマコが美味しいんだ」と毎回言っていた。そこで村上はナマコが何だか知らなかったが、ナマコと自民党のパーティーで大好きだったアヒルがその炒飯レストランにあるか聞いてみた。「あるある」と言って宇都宮は村上にナマコと北京ダックを注文してくれた。
アヒルもナマコも村上の目が点になるほど美味しくて、1口食べるたびに歓喜する村上を見て宇都宮はその料理を作ってくれた人を連れて来てくれた。「1人で全部食べちゃったの!?」と驚いたその料理人は 陳建民 だった。「色々な味が次から次に出てくる凄い味なんだよ!」と歓喜して食レポする村上をみて、ナマコのおじちゃんはにっこり笑って嬉しそうだった。宇都宮邸から引っ越すまで宇都宮は時間がある時は村上を 赤坂 の 四川飯店 に連れて行った。
五反田と品川時代、村上は父安の炒飯と吉田アヤの竜田揚げ以外温かい食事を食べることはなかった。一皿一皿心のこもった料理は人を元気にさせ、食べ終わると底知れぬ安心感に浸れることを 陳建民 の味から村上は学んでいた。ウィスコンシン州立大学 に入学してシカゴで「料理の鉄人」のビデオを見るまで村上はナマコのおじちゃんが 中華の鉄人 陳謙一 の父であることに気づかなかった。村上の父安が中国を訪問する時、安がナマコを好きなことを憶えていてくれて毎回ナマコを出してくれていた 周恩来 総理 は父安にとってのナマコのおじちゃんなのだと村上は思っていた。


--- おじちゃんのプロ野球中継 ---
雨の日の午後だった。その日は雨足が強く、傘を持って行かなかった村上大志は歩いて10分程の幼稚園からの帰宅道だけで運動靴はビショビショだった。宇都宮邸の玄関に辿り着くと村上は「こりゃ靴下脱がないと足跡つくよなぁ裸足になっても足跡つくんじゃないかぁ?」と独り言を言っている時に背後に大きなカラスが舞い降りたように感じた。後ろを振り向くと、曇りガラスの引き戸の向こう側に大きな黒い傘が見えた。お客さんである。村上が玄関引き戸を開けて上を見ると、そこには傘をさして大きい目の正方形の箱を脇に抱えているおじちゃんが立っていた。「やぁ!だいしくん、こんにちは。今日は良い物を持ってきたからこれをおじちゃんとやろう!」と言われた。
名前が思い出せなかったが議員会館で何度か挨拶していたそのおじちゃんの笑顔から村上はおじちゃんが脇に抱えている箱の中身は何か凄いもののはずだと思った。その大きな正方形の箱の中身は エポック社 から発売されていた『野球盤人工芝球場』だったのだ。野球に全く興味がなく、前の年の誕生日に野球好きの父安から贈られたグローブは安が村上に無理矢理キャッチボールをさせる時以外は本棚に飾られるだけだった。
「だいしくん!ずぶ濡れじゃないか」とおじちゃんは持っていたハンカチで村上を拭こうとしたのだが、村上はおじちゃんのハンカチが自分の靴下と同じになると思い「おじちゃん、着替えてくるから大広間で待っていて下さい」と座布団をだして、おじちゃんのハンカチを遠慮した。大広間の長い廊下の反対側の浴室で手早く体を拭き着替えてから村上は大広間に行ってみた。大広間の縁側はまだ雨降りだった。おじちゃんは丁寧に包装紙を開けて真新しい野球盤を村上の前に差し出して説明書を読みながらゲームのやり方を教えてくれた。庭の壊れている獅子落としの鈍い音を聞きながら、プレイボールである。1番村上、2番鈴木、3番長嶋、4番王でまた1番村上と打席が回る。長嶋茂雄 や 王貞治 のプレーがどんなだか話しながら野球盤の相手をしてくれたのが野球のおじちゃんだった。
父安が10年前に結婚した時、お祝いに野球のおじちゃんは金の置時計と腕時計を安に贈っていた。前の年、安が村上に贈ったグローブは村上がおじちゃんの金時計の隣にわざと置いて飾っていた。村上はあの豪華な金時計の隣にグローブを飾れば安とキャッチボールをしなくて済むと思っていたからであった。
野球盤シリーズで人工芝が貼られた野球盤人工芝球場はその時まだ発売したばかりで珍しかったようだ。次の日、幼稚園で村上は野球好きな飯島に自慢してみた、「野球盤人工芝球場って凄いのか?俺持ってんだけど」と。飯島 は普段なら「そんなの僕も持ってるよ」と言うのだが、「たいしくんそれ本当!?それスゴいんだよ!一緒に野球盤してくれないか?」と返してきた。飯島は 五反田、目黒、新宿 のおもちゃ売り場を探してきたそうだが、野球盤人工芝球場 はどこにも売っていなかったのだそうだ。
おじちゃんが持ってきた野球盤は盤ゲームなのに人工芝が張られて実際の 後楽園球場 みたいで野球を知らない村上にも本格的だった。その人工芝は徳太郎爺のヒゲと違い手触りがよかった。村上は人工芝のお陰で野球に興味を持ち始めた。野球のおじちゃんの実況は 野球実況と言うには話しがたどたどしかった。「本当は野球のおじちゃんも野球詳しくないのかな」と村上は思っていたが、毎回投球で村上がホームランを打てる玉を転がしてくれたのだった。おじちゃんは村上が転がす玉は、「速すぎて打てない」と実況しながら毎回空振りするのである。村上に野球盤人工芝球場を持って来た野球のおじちゃんはその後 内閣総理大臣 になる 大平正芳 だった。自民党の様々な 金脈問題、金大中事件 の党の対応が発端となり、当選同期で苦楽を共にして来た 宇都宮徳馬 とも村上の父安とも大平は足並みが合わなくなっていた。自らの党内融和策が必ずしも正しいとは思えず大平は出口を模索していたのかもしれない。明確な善悪判断を礎に世界と日本を観ていた村上の父安に大平は話を聞きに来ていたのだった。
大谷翔平 がホームランを打つたびに 村上大志 は思い出すことがある。仮にこの地上に明確な善が存在したとしても、その善が分からない人にとっては。ただの『あるひとの正義感』である。仮にその善の判断が正しかったとしても地上でその時代にその判断が必ずしも正しいと証明されるとは限らないのである。あらゆる欲が渦巻いて弱き者たちを搾取して来た人類の歴史に一つの政治が正しい結果をもたらしたこともないのである。誤った判断に間違いを突き付けるだけではなく、その間違いに寄り添い、間違いに気づかせてくれる人たちがいたからこそ、この地上は今日まで続いて来たはずである。大谷翔平の一球一振りは毎回相手チーム、自分のチーム、観客たちから観て野球に興味があるないにかかわらず全ての人々が楽しめる野球の寄り添いに基づいているのではないかと。村上は大平の笑顔を大谷のプレーから感じるのである。
野球盤はオリンピックのようにどこかの国をボイコットしたりさせたりする必要もない。東西冷戦 の両諸国も敵も味方もどんな国の選手でも、宇宙人 も、罪人 も、善人 も、野球盤 は同じルールで誰もが参加して蔑みあわず試合が出来るのである。議論するのではなく、ただ試合を共にするだけで2つのチームとも達成感があり、その達成感に貢献してくれている相手チームの側面に気が付くことさえもあるのである。日中国交正常化 を実現するために中国と日本の間の信頼を一から作り直して来た 宇都宮徳馬 と父安を蔑ろにする結果となった自民党と日本政府の対応の責任を大平は感じていたのかもしれない。あの日、大平が村上に野球盤を持ってきたのは、本当は大平は 宇都宮徳馬と父安の善の灯火をもう一度党内に届けようとしていたからなのかもしれない。
総理大臣在任中、大平正芳 はイスラエルよりの日本政府を代表しながら、宇都宮徳馬 が唱えていた パレスチナの 民族自決権 に賛同し、日本政府側で PLO議長 ヤーセル・アラファト を日本へ招待する道筋を作ったのだった。宇都宮邸でも議員会館でも年上年下関係なく誰とでも友だちになってしまう 村上大志 を大平は可愛がってくれていた。村上にホームランを打たせてくれる野球のおじちゃんは寄り添いが楽しい野球盤に大切であることを知っていた。世界の体制、主義、宗教、国内の政治派閥の泥沼も、誰かが犠牲になるのではなく皆で仲良く理解し合い解決する道があれば最良だと、おじちゃんは政治の内外で示していたはずである。限りある自分の命を寄り添いに使っておじちゃんは日々を過ごしていたのだと村上は感じていた。
大平広島カープは村上巨人軍に14対0で負けた。大平が村上に打ちやすい玉を転がしてくれたからの試合結果だったのかもしれない。村上はまたおじちゃんの野球実況を聴きながらホームランを打ちたくて宇都宮邸から引っ越すまで、行く先々に野球盤を持ち歩いていた。野球で世界中の人々が試合を楽しめ、チーム同士、観客同士が分かり合える日が来れば、地上から争いごとはなくなるはずである。大平正芳 の意思と 長嶋茂雄 の夢は今日、大谷翔平 を始めとするメジャーリーグ日本人選手たちに託されているのかもしれない。


--- 4才のミスタードライバー ---
1970年代後半、五反田は東口に バスキンロビンズ と セブンイレブン が出店したばかりでまだ 東急ストア は完成する前だった。山手線 の線路の反対側の西口には『新開地』と呼ばれる買い物街があった。その買い物街は現在の池上線の線路の下にあったので電車が発車する度に店々が振動する振開地だった。行きつけのパン屋さんも総菜屋さんも西口にあったので 村上大志 は幼稚園に入る前からお使いに行っていた。そのお使いに行くのに最高の相棒ができたのである。
五反田幼稚園 で 年中 うめ組 に上がり、おもちゃの乗用玩具が小さくなって宇都宮邸が狭く感じ始めていた村上に、宇都宮徳馬 はチェーンドライブのゴーカートをプレゼントしてくれた。自転車用のブレーキとギアとペダルが付いていて座席もバンドルも本物のレーシングカーと同じレイアウトの本格車両だった。村上が当時短い脚で歩いて五反田駅西口を往復するのに1時間以上掛かっていたが、それ以来ゴーカートで30分で戻って来られるようになった。村上は宇都宮から贈られたゴーカートを 大志号 と名付けた。
宇都宮邸は現在の 清泉女子大学 の下にあり、五反田駅 までの道は下りだった。行きは下り坂なので山手通りに出るまでは足こぎしなくても辿り着けた。勤め帰りで五反田駅に向かい歩く大人達にぶつかるギリギリで合間を抜けながら村上はドライビング技術を磨いていた。
帰りは坂道の途中で足こぎが止まるので、宇都宮邸の高橋秘書に坂の途中まで来てもらい大志号を宇都宮邸の階段の上まで上げてもらうのである。高橋秘書に買ってきた物を渡して、お礼を言った後、宇都宮邸玄関前の大志号駐車スポットにバックで停めるとその日のお使いが終わるのであった。大志号は音が出ないのでバックする時は村上が「ピーッピーッ」と声で音を出していた。実際の自動車の運転技術は高校卒業後、堀越高等学校で学友の 小池真一 と兄の圭一に都内高速周回路で教え込まれることになる。
当時五反田の宇都宮邸には日本が先の大戦から立ち直り世界平和を担える国になって行くための政治とジャーナリズムを 宇都宮徳馬 と父安から学ぶために放送業界や政治家を志す、手嶋龍一、小沢一郎、土井たか子、与謝野馨、渡辺光一、菅直人 を始めとする多くの若者たちが集い議論を交わしていた。村上はそんな彼らに宇都宮邸の長い廊下を歩いてみかんやおにぎりや新開地で買ってきた手羽先の山を届けていた。

--- 名犬の保護者 ---
宇都宮邸には大きめの白い スピッツ がいた。彼女の名前はエリー。村上大志 が生まれた時すでに15歳だった。エリーは美しくて頭の切れる犬だった。
皆にエリちゃんと呼ばれていたそのスピッツには『宇都宮エリー号』と刻印された丸メダルが首輪に下げられていた。当時五反田ではリードなしでこの白いスピッツが歩いていると宇都宮の犬だと誰もが分かるほど有名だった。村上は習い事の中で、体操教室 が大の苦手だった。でんぐり返しをしても何をしても真っすぐにできないのである。習い事の帰りに村上が落胆するのはいつも体操教室だった。五反田駅西口の新開地裏にある体操ビルからうな垂れて出てくる村上を外で待っているのはエリだった。帰り道、村上が体操教室であったことを黙ってエリは聞いてくれるのである。
宇都宮邸でエリは大広間外の犬小屋で生活していた。村上がエリと遊んだ後その小屋の中で寝てしまうとエリは小屋の外に座っていた。いつも冷静でお利口なエリにも1つだけ弱点があった。雷である。夏場、雲行きが怪しくなると、エリは落ち着きがなくなる。雷の音が聞こえ始めるとエリは宇都宮邸の中に物凄く入りたがり大きいガラス戸前の縁の下で足踏みを始める。近くで落雷が始まると我慢できなくなり大広間に飛び込んでくるのだ。ある日、雷が鳴り始めた時、大広間のガラス戸を高橋秘書が開け忘れていた。近くに雷が落雷する直前にエリはガラスを突き破って大広間に入って来たのだった。雨が止んだあと、割れた大ガラスの片づけが大変だった。
村上は幼稚園入園式以来、祖母 吉田アヤ がいない時は1人で幼稚園に通っていた。行列して登園降園する友達以外は母親が迎えに来るのだが、村上の迎えは犬だった。雷の日以外は何事にも動じないスピッツが村上の保護者なのである。村上が 御殿山 や 島津山 の空き地に遠出して遊ぶ時もエリがついてきた。1970年代後半、まだ夕方5時の音楽サービスが無いころだったが、エリは時間にも正確だった。16時30分になるとエリは小さい狼のように上を向いて吠えて子供達の帰りを促すのであった。
村上が幼稚園年中の3学期、いつも外にいるはずのエリが小屋の外に出てこない。エリの様子がおかしいことを村上が宇都宮の山谷秘書に伝えて掛かり付けの阿部病院の先生に来てもらった。エリは注射を打って貰い頭は起こせるようになったが、立ち上がれなかった。山谷秘書はエリの状態を察して、村上に新開地で 松坂牛 500グラム買ってくるように頼んだ。村上は大志号を飛ばして急ぎ 松坂牛 を買って来た。ミンチになった 松坂牛 を出すと、エリは美味しそうに食べてくれた。次の朝、エリは動かなかった。まだ目は開けられていたが呼吸が荒かった。村上は「幼稚園から直ぐ帰るからね」とエリに言って登園した。これが村上とエリが交わした最後の会話になった。この年エリは19歳だった。エリが既に超高齢の時に村上が生まれてこの時まで4年間、エリは老体に鞭打って村上の保護者でいてくれたのである。
宇都宮エリー号は村上にとって最初の動物の友だちであり家族だった。その後、村上がアメリカに留学した時、下宿先にクーリオを言う名のオールドイングリッシュシープドッグがいた。英語が喋れず苦悩していた村上はいつもクーリオから元気を貰っていた。村上は大学4年の春先に15歳のクーリオも見送ることになる。宇都宮エリー号は 中央林間 の宇都宮のお墓に眠っている。現在村上は16歳になる3匹のポメラニアンと暮らしている。1番大柄の白いポメラニアンはエリにそっくりな目をしているのである。


--- 園児たちのスタンドバイミー ---
幼稚園生活がもう直ぐ終わる予感がしていた 五反田幼稚園 年長 バラ組 の2学期も中盤になり夕方が寒く感じられる頃、バラ組 男児たちは「電車を近くに感じたい」と言う話で盛り上がっていた。村上大志は 五反田 と 目黒 の間に車側道と山手線の線路が上下で交差する場所があり、迫りくる内回りの 山手線 が線路脇で目の前に現れることを知っていた。「飛び出す山手線デカくて凄ゲェーんだぞ!!」と面白ビックリな話を村上から日々聞かされていた山崎の「電車見に行ってみようよ!」との一声に、みんなで行こうと言うことになった。
山崎、森田、嶋田、小野寺、田島、村上の6人はその場所へ向かった。電車を近くに感じるのに更に最適なアイディアを村上は知っていた。電車にある事をするのだ。それは立小便。実は現場に行くまで思いつかなかったことだが、村上は成功すれば良い思い出になると自信があった。村上が目黒側の1番風上に、次いで五反田側に向かって山崎、森田、嶋田、小野寺、田島の順に並んで山手線を見る位置についた。
幼稚園卒園後どうなるか皆が不安な頃だった。春になれば山崎、森田、田島は 第一日野小学校 に、嶋田と小野寺は 第三日野小学校 に、村上は一人 立会小学校 に入学して今のバラ組がバラバラになることは認めたくなくても直にそうなることを6人は感じていた。だから「何か思い出を作りたいなぁ」と言う話が仲間たちの間で出ていたので、村上は「皆で立ちションを山手線に掛けてみよう」と言ってみた。まさかとは思ったが皆絶賛していざ決行となった。誰1人ビビる友がおらず、発案した村上は「え!?本当にみんなやるんですか?」と現場に着いた後ビビリ始めていたし、何か嫌な予感もしていた。
村上以外は誰も「後で怒られるかもしれない」と考えなかったのだ。小便が貯まるまで7~8本山手線を見送ると6人が良い感じにもよおして来た。「次に来る山手線にやるぞ!」と村上は5人に声掛けした。すると村上の耳に目黒を発車する 山手線 の車輪の音が線路伝いに聞こえて来た。エレクトーンを目黒で習っていた村上は 目黒駅 を発車した 山手線 がこの地点まで来るのに約25秒掛かる事を知っていた。タイミングを見計らって村上は「立ちショ~ン用~意!」と号令を掛けて6人は全員発射体勢になった。6人の発射のタイミングが乱れないように村上は当時流行っていた 『宇宙戦艦ヤマト』 の 波動砲 発射 の手順を実況してみた。「エネルギー充填120%ヤマト波動砲発射用意!」続けて村上がヤマトの効果音のモノマネをしている時に6人の目の前に 山手線 が現れた。「波動砲発っ射!」と言って村上が電車に届くように1歩線路側に近づいた時、迫り来る山手線の運転士と村上の目が合った。次の瞬間その運転士は顔を歪めて凄くうるさい警笛を鳴らしたのだ。巨大な山手線が吠えたのである。
6人はあまりの音に全員でビックリしたが、時すでに遅かった。秋口に一度発射された男児たちの小便は出きるまで止らないのである。更に6人は立ち上がったことと通過する列車の風圧で小便をしたまま隣の友に倒れこんだのだ。山崎は森田に、そして森田、嶋田、小野寺の順に山手線ではなく田島に5人分と田島自身の小便がかった上に最後まで堪えていた村上が倒れこんで6人分の小便全てが田島にかかった。あの嫌な予感はこの結末だったのだ。小便が全て出きってすぐに村上は田島に平謝りに謝った。田島は「大志くんは悪くないよ」と返してきた。「大志くんは凄いんだよ、みんなに忘れられない思い出を作ってくれたんだよ」と半泣きで笑っていた。
帰り道、桜田通り にある セメダイン 社屋南側の 池田山 プリンス公園 の水飲み場で小便まみれの田島を5人で洗っている時、6人は「これから新しい何かが始まるんだ」と感じていた。同時に6人は忘れられない思い出が作れたと思っていた。次の日、田島は風邪をひき幼稚園を休んだ。村上はあの時から現在まで、不条理を作り出す大人達や社会の制度に立ち向かう勇気は、あの時、田島に授けられたと信じている。


(  品川時代  ) ---
--- スクーターの夢 ---
1980年4月 幼稚園最後の秋口に村上大志が感じていたことが現実になった。村上は 五反田幼稚園 卒園後ただ1人品川区立 立会小学校 に入学した。父安が 宇都宮徳馬 から 徳洲会 の 徳田虎雄 に鞍替えした結果、村上は生まれてから住み慣れていた五反田の宇都宮邸から品川の徳洲会マンションに引っ越して来たのだった。立会小学校の入学式では右も左も知らない友達ばかりで自分から話しかけようとは思えなかった。校門で撮った入学写真も村上の顔から笑顔がなくなっていた。
そんな村上の変化にいち早く気づいたのは村上の1年2組担任の西川優だった。姿勢が良く厳しい顔立ちで背が高い西川は次の年が定年で村上の学級が西川にとって最後のクラスだった。5月の連休明けになっても、誰とも自分から話そうとしない村上は、友達から話しかけられても気が合わないと暴れるようになっていた。村上が暴力的になる前から西川は村上が大切にしてきた アマダ の ゼロ戦 ソフトグライダー や ガンダムカード の話を時間をかけて聞いてくれて、ホームルームで村上の宝物の話を1年2組に話して聞かせていた。
西川先生のホームルームでは最後にジャンケン大会があり10回勝ち抜くと西川の スクーター の後ろに乗せてもらって校庭外回りを1周してくれる特典が付いてきた。村上も1年2組の子供達も皆西川のスクーターに乗りたかった。品川で唯一自分を理解してくれる人のスクーターに乗りたくて、村上は後出しでジャンケンを勝ち抜いていた。直に他のクラスメイトたちは村上がズルしていることに気づき、咎めるようになっていた。どう見ても後出ししている村上だったが「俺は後出ししてねぇーよ!」と凄んだ。その時、厳しい面持ちの西川が急いで村上の前に来た。村上もクラスメイトたちも村上が叩かれると思った。
村上の前に立つと西川は、「大志くんは後出ししてないよ」と皆に優しく一言だけ言った。西川の優しい声に村上と1年2組の子供達は同時に癒されたのだった。村上のズルを見過ごせなかった1年2組の子供達は、押し潰された気持ちを上手く話せない村上の孤独を感じた、村上はみんなで仲良くして行きたいクラスメイト達の気持ちを感じることが出来た。子供たちの中に、生まれた時からあったはずの寄り添いの心が皆の心の中に瞬時に蘇り、一瞬にして染み渡る空間を皆が共有したのだった。
その後、村上はジャンケンの時に後出ししなくなった。暴力的なところも影をひそめていった。夏休みには新しい友達とも遊べるようになり、2学期になったら西川に話すのが楽しみだった。2学期の最初の日の朝、1年2組は西川先生が現れるのを皆心待ちにしていた。チャイムが鳴ると、尾上校長が厳しい面持ちで入ってきた。何故西川先生でないのか皆理解できない様子の時、校長が重い口を開いた。「西川先生はお病気になって入院なされました。西川先生が治るまで私が担任をします」と説明された。
西川は末期癌に犯されていたのだった。末期癌と知っていて西川は最後のクラスを受け持ったのだった。ジャンケン10回を勝ち抜いた村上は西川のスクーターに乗れる日を楽しみにしていた。西川は癌が脳に転移していて実は体調がギリギリの状態で新学期の教壇に立っていた。万一事故があってはならないと、村上のクラスで西川は誰もスクーターに乗せていなかった。
3学期になっても西川先生は学校に現れなかった。1月がもう直ぐ終わる頃、クラス連絡網で西川が亡くなったことを村上と1年2組の子供達は知らされた。余りに突然だった。周囲の大人達に反対されたが、村上は父安に殴られる覚悟で思い切り我を張った。「1人でも行く」と青物横丁の徳洲会マンションから不動前の斎場に冬雨の中歩き出していた村上を父安は 不動前 の斎場まで車で送ってくれた。村上と1年2組の友達数人は共に西川の通夜と告別式に最後の教え子として参列した。

徳太郎爺を上唐子で雪の日に送り出してまだ3年しか経っていなかった。あの日と同じだった。西川の通夜の日も不動前の式場はみぞれ混じりだった。村上は心の中で西川に「ありがとう」を伝えた。前の年村上は野球のおじちゃんである 大平正芳 も失っていた。村上は理解してくれる大切な人たちを矢継ぎ早に失った。やり切れない孤独感と向き合いながら村上の小学生時代の日々は過ぎて行くことになる。

--- 無条件と不条理と ---
1981年10月 「大切な人が来るから大志君も来なさい」と 宇都宮徳馬 から一年ぶりに電話があり、パーティー会場に行く事になった。幼稚園卒園後、父安が 徳洲会 の 徳田虎雄 の秘書になり、村上大志 は宇都宮から離れていたので、久しぶりに親代わりだった宇都宮の声を聴けて嬉しかった。パーティーに参加する大人たちはスーツで正装し、子供たちは皆着物を着付けてもらっていた。村上はランドセルを下しただけの学校帰りの半ズボンと所々穴の開いたセーターの普段着だった。
会場のドアが開き、中に入ると、見覚えのある代議士たちが話をしている。司会の挨拶でパーティーが始まり、壇上ではゲストの大人たちが紹介された。紹介されていた見慣れないゲストのおじさんが話終り壇上から降りてくるのを壇上から離れた壁際に立っていた村上の目に入るか入らないかのところで、そのおじさんは人混みに紛れ見えなくなった。間もなく村上の前がスポットライトで明るく照らされ大人たちが押し分けられて来た。目に入った光の眩しさの中から誰かが村上の方向へ歩いて来た。先ほどの見慣れないおじさんが村上に歩み寄ってきたのだ。まだ数メートルは離れているのに村上の周りが暖かくなるのを感じた。ライトの温かさとは違う、空間ごと暖めるようなその温かさが広がっていくのを感じた時、光の中からそのおじさんの手は村上の前に差し出された。村上はそのおじさんと握手をした。村上に差し伸べられた手のひらから伝わる感覚は、東光書院の庭の自然から伝わっていた無条件と西川先生が示した極限の寄り添いと似た感覚のものだった。
パーティー会場で1番みすぼらしい格好をしていた 村上大志 に差し伸べられたその手に、その時そこにいる理由や生まれの所以などの条件をなくしてしまう空間の中に村上はいるのを感じたのだった。ターバンを頭に巻いたそのおじさんは PLO議長 ヤーセル・アラファト だった。当時も日本社会には子供を虐待する親達がいた。親や大人に虐待され、蔑まれた子供たちは学校で暴れ、幸せを分かち合うはずのお友達を傷つけいじめる現実が蔓延していた。村上が幼稚園のお友達から学んで来た寄り添いの先に、寄り添いを妨げる不条理が存在している外の世界がどのような世界なのかを考え始めていた村上にとって、村上がこの世で避けては通れない不条理と向き合う旅に歩み出すキッカケになったのは ヤーセル・アラファト との出逢いだった。そしてこの経験が後に村上と母親達が発会する マザーランドアカデミー の根幹になって行く。

​(  俳優時代  ) ---
--- 奇跡のサッカー少年 ---
1987年4月 小学生の頃からサッカーが上手くなりたかったが全く上達しなかった 村上大志 に所属事務所から無理なキャラクター設定が続いていた。今回の仕事は女優の 鷲尾いさ子 演じるサッカー部顧問と少年サッカー部員達の物語でセンチュリー21のコマーシャルだった。制作監督が出演者のサッカー技量を現場で見定めてから実際にコマーシャルに出演させるか判断することになった。
ゴールにシュートするだけの簡単なテストで、村上の前にボールを蹴った少年達は皆カッコ良いシュートを決めていた。特に 石川博之 の蹴ったボールは勢い鋭くしかも曲がってゴールネットに突き刺さっていた。村上は石川が『キャプテン翼』の大空翼にしか見えなかった。最後に村上の番が来た。石川の次だった事もあり足が緊張してボールを蹴ったはずだったがボールは村上の足元に残ったままだった。
運動神経鈍そうに空振りして村上が終わったその間際に、「こいつドリブルが凄いんですよ!」と声がした。「村上いくぞ!」と言って村上に受け易いボールだけを蹴って一緒にドリブルをしてくれたのは 石川博之 だった。このドリブルが製作監督に上手く見えたらしく、村上もサッカー部員として撮影に参加出来ることになった。この年の秋から石川と村上はTVドラマで共演することになる。撮影現場では空気を読めず、失敗の多かった村上を石川は常に寄り添いかばってくれた。あの日サッカーボールを蹴ることも受けることも無理だったはずの村上を一時的にサッカー選手にしてくれたのも石川だった。CMはサッカーの試合に負けたチームが顧問の 鷲尾いさ子 先生に慰められる内容で、CM中、少年達は試合に負けて泣いていたが、短時間でも石川にサッカー選手にしてもらった村上は、当時すでに有名人で仕事現場でも先輩で救世主の 石川博之 と過ごせた時間に一人感動の涙を流していた。
 
--- 給食事件 ---
1987年10月 数回のオーデションを通過して出演することが出来た連続ドラマの撮影が中盤に差し掛かっても昼休みの給食のシーンの撮影時、村上大志 が撮影用の弁当を本当に食べてしまう状況が改善されない撮影現場で 伊藤一尋 プロデューサーが遂にキレた。「村上!何度言わせるんだ!!次やったらスタジオからつまみ出すぞ!」と制作室からスタジオスピーカーに怒鳴り声が走った。村上は撮影スタッフと出演者たちの前で酷く叱られ凹んでしまった。中学生がテーマのドラマ撮影であり村上を含めた出演者たちは集まるだけでも楽しくて撮影現場がまとまらなくなる事があり、現場に示しを付けるために村上は的になることがあった。
春先に 中山美穂 に勇気づけてもらった同じスタジオの同じカメラの後ろで凹んでいた村上に、「あんな厳しいこと村上にしか言えないだろ」誰がどう見ても撮影中、弁当を食べることに集中している村上に非があるのに、「制作サイドの事情だから気にすんなよ」と話しに来てくれたのはこのドラマの主役の 高橋良明 だった。
 撮影中、俊敏で仕事にまっすぐな高橋だったが 石川博之 と共に村上が失敗した時は人知れず助けてくれていた。凹みが深くてまだ沈んでいた村上はスタジオの外で 植木等 に呼び出された。「今度は何の事で怒られるのだろう」と村上が恐る恐る控室に通されると、植木は「いいから食べろ」と植木の弁当を差し出してくれた。この時ばかりは緊張が限界点に達し、いつもあるはずの村上の食欲は揮発したように一気に消えてしまった。「もうお気持ちだけでありがとうございます」と答えた村上に、居合わせた 小松政夫 が、「食べておいたほうがいいよ~」と重ねたが村上は恐れ多くて植木の弁当を食べることが出来なかった。
 
--- 笑顔は最高! ---
村上大志 には中学の俳優時代、目標とするアイドル歌手がいた。その人の笑顔は女子ファンはもとより、撮影現場で仕事を満足にこなせていない村上にとっても、笑顔は見る人たちを幸せにすることを教えてくれていた。
村上の中学3学年時の委員会は放送委員会だった。昭和末期、まだ中学校も男子生徒優遇の風潮があり、男子アイドルの曲は学校では放送タブーであったが、村上はあえてその笑顔が素敵な人のグループの曲を給食放送中に流してみた。予想通り男子生徒達から苦情が入った。しかし その反面、村上が下校する時に女子達からは「あの曲流してくれてありがとう」と小さな声で言われた。村上の耳に入る生徒達の数日間の視聴者集計によると、そのアイドルグループの曲は学校でオンエアーOKであると判断できた。
2学期の2週目から村上はそのアイドルグループの歴代ヒット曲と、放送する前後の曲に関連したそのグループのアルバム曲を流してみた。村上が放送するならと男子友達ははじめは我慢してくれていたが、次第に彼らも曲の良さに気づいたのか苦情を言わなくなった。
9月の3週目の昼休み、「村上もあの人好きなの?」と 夏川りみ が放送室に入ってきた。7人グループのあの人のことだと、村上は夏川の表情から直感で分かった。夏川と村上は 3年B組 で同じクラスだったが、挨拶以外会話をしたのはこの時が初めてだった。「え!どうして分かるの?」と村上が返すと、夏川は「なんとなくねー」と言って、「私さ同じポスター2枚あるからあげようか?」と話が来た。村上はその笑顔が素敵なアイドル歌手のポスターを夏川からもらって直ぐ自分の部屋のドアに貼った。大学を卒業して引っ越す迄夏川から贈られたポスターは村上の部屋に貼ってあった。その人の笑顔を見ると全てが上手く行くような気持にさせてくれる、そんな最高の笑顔を自分も誰かに届けたいとその人の笑顔は思わせてくれていた。

--- ボクシングの世界チャンピオン --- 
「今学期こそは、自分を変えるぞ!」と 村上大志 は中学3年の2学期に様々なイメージチェンジを計っていた。その1つが、あの笑顔が素敵な人の髪型を創るお店で同じスタイリストに自分の髪を切って貰うことだった。
モリオ・フロムロンドン、現在も原宿表参道にあるそのお店は当時あの笑顔が素敵なアイドルを始め時代を牽引する芸能人のスタイリングを担っているサロンだった。村上は迷いなく「あの人を担当している方をお願いします」とお店に予約を入れ、来店時に「あの人と同じ髪型にして下さい」と当時の町田店長にお願いした。その当時、原宿店は町田店長と野口ディレクターと 河本盛雄 社長がお店の代表スタイリストだった。町田店長の予約が取れない時は野口ディレクターに担当してもらっていた。野口は自動二輪車が好きで、村上が高校に上がってバイクで来店するようになると、帰り際に必ず村上のバイクのエンジンを掛け、表参道の街路樹の下でその音に2人で浸るのだった。
村上が初めて来店した時、お店1年目で野口ディレクターのアシスタントをしていた 西脇正雄 が村上の生涯のヘアースタイリングの師匠となる。西脇は今でも自分のカット技術をスマホで村上に撮らせてカットの勉強をさせてくれている。西脇の39年間の指導は村上にスタイリングと人と人の間に創り出せる癒しの技術を伝え、村上は21世紀に入って以来自分で自分の髪を切り、また数少ない村上を信頼してくれる人々の髪を切れるまでに成長できた。
村上は野口ディレクターに「河本盛雄 社長はスタイリングとボクシングの世界チャンピオンなんだぁ~、店で鏡を真っすぐ見れない客はたまにストレートパンチを喰らうんだぞ~」と言われたことを最近西脇に種明かしされるまで信じていた。河本盛雄 社長はスタイリストの世界チャンピオンであり、ボクシングの世界チャンピオンではないそうだ。
 
--- おばちゃんの弁当 ---
村上大志 は宇都宮邸にいた頃から 阿佐ヶ谷中学校 で母方の叔母の 神津美津子 の家にお世話になるまで、幼稚園や学校の弁当は自分で詰めていた。小学校の運動会で朝時間がない時や、朝ごはん無しで給食までもたない時は図工室の裏の木に登って木の実を食べていた。
神津はマザーランドアカデミーを途中から手伝ってくれていた。「学校に行く前に朝ごはん食べてから行きなさい」と 阿佐ヶ谷中学校在学中 は村上に朝ごはんが用意されていた。祖母の吉田アヤ以外、誰かが村上に朝ごはんを作るなど初めてのことだった。神津は 成蹊高等学校 を卒業後栄養士の資格を取り、丸の内ビル大食堂の食堂責任者を勤めていた腕前で、栄養バランスが取れた食事と彩鮮やかな手作り弁当は全て美味しかった。毎月の遠足には神津が手作り弁当を用意してくれた。神津の弁当は彩が豊かすぎて3年B組で有名になった。
祖母吉田アヤの長女である 神津美津子 はカメラも趣味だった。神津は村上が初めてアフリカに行く時も写真の撮り方を教えてくれた。神津譲りの写真技術は村上が後にアメリカでイーコマース商品を出すときの商品写真から、ラジオ局の番組レポーターとして取材現場でブログ写真を撮る時まで幅広く村上を助けることになる。神津美津子 (旧姓 吉田美津子) は 成蹊高等学校 在学時同級生であった 神津裕 と結婚して作曲家の 神津裕之 が生まれるのである。村上大志の祖母 吉田アヤ が2007年に94歳で亡くなる最後の日まで 神津美津子 は夫の 神津裕 と共に吉田アヤを介護施設に預けることなく、手作りの食事と心のこもった介護で世話をして母親の最後を看取ったのである。村上大志の父方の祖母 村上郁子 は 信州 平尾家 出身で 神津家 とは隣家であった。
 
--- 思い出の打ち上げパーティー ---
1989年3月、杉並区立 阿佐ヶ谷中学校 の 3年B組 は全員進路が決まり、祝でたく卒業式を迎えた。当時、校舎改築中だった阿佐ヶ谷中学校の卒業式は荻久保公会堂で行われた。校舎改築中だった阿佐ヶ谷中学校の最後の一年は校庭が無く、子供たちの遊び場は校舎の屋上しかなかった。体育館も狭かったので卒業式は学校ではなく荻窪公会堂で行われた。村上大志 は学級委員長の森からB組の思い出に残る卒業パーティーが出来ないか相談を受けていた。
校庭がない 阿佐ヶ谷中学校 の3年生達は ディズニーランド やアスレチックへと他の区内の中学校と比べれば破格の遠足待遇を受けていたが、やはり校庭がない分生徒達の思い出は空回りしていたのだった。村上はB組メンバー全員が電車移動が大丈夫か確認したう上で、仕事先の先輩に連れて行ってもらっていた渋谷公園通りのシェーキーズに予約を入れていた。3年B組メンバー全員は学校には内密にして卒業式の後、阿佐ヶ谷駅に集まった。3年B組は子供たちだけで総武線から山手線に乗り換えて、渋谷まで最後の遠足に出掛けたのだった。
村上は子供たちの引率はなれていた。担任の山下徹教諭もパーティーに招待したかったが、教員としての立場上、未成年である中学生主催のパーティー自体を学校に中止にさせられる恐れがあったため、山下教諭は呼べなかった。学校関係者がいない生徒水入らずの3時間ピザ食べ放題の中、皆3年間の思い出を語り合った。森と福宮は別の高校に進んでからもマザーランドアカデミーのイベントに参加した。同じクラスからは 夏川りみ と 村上大志 が堀越高等学校へ進学した。

--- 奇跡のモーニングコース ---
1989年5月 資生堂 の新商品のコマーシャル撮影のため、エキストラを含む出演者達がオープン間もない ホテルニューオータニ 大崎ニューシティ の前に集まった。集合時間の朝6時になると出演者達はホテルの広間に通された。「リハーサルが始まるのかな?」と思っていた 村上大志 と出演者、撮影スタッフ全員の前に ホテル ニューオータニ の モーニングコース が用意された。村上が経験したことのない破格の エキストラ 待遇に出演者全員が驚いていた。「さぁ皆さん一緒に食べましょう」と長身の女性がその広間に入って来た。このコマーシャルの主役の 今井美樹 だった。誰のコマーシャルか聞かされていなかった村上は二度驚いた。
植木等の弁当を食べれなかったことを後悔していた村上は、ここは遠慮してはいけないと直感して、誰よりも早くモーニングコース1人前を食べ終わってしまった。村上の斜め右前に座っていた今井は村上に気づき、「あら、それじゃ足りないでしょー、」と更に5人分のモーニングコースを村上に用意してくれた。完食された6人分のモーニングコースがかえって重量になりコマーシャル撮影中、今井の後ろで飛び上がる村上は頭が2回しか映らなくてCMに全く貢献できなかった。6年余りの芸能界生活で元々大食で1日中常にお腹が空いていた村上に気づいて食べ物を用意してくれたのは 中山美穂、植木等、今井美樹 の3人であり、村上は仕事現場で計り知れない愛情を受けていた。CMは資生堂「RINPOO」と言うリンスとシャンプーが1つになった当時の画期的な時短商品で、移動中も飾らない明るい笑顔の 今井美樹 が印象的で大ヒットした。
 
--- 恐怖の障害物競走 ---
堀越高等学校の入学式が終わると村上大志は父安から代役出席を頼まれた。父安は東光書院で共に学んだ 中曽根康弘 から自民党のパーティーに招待されていたが、村上に代わりに出てくれとの話だった。
以前中曽根と会った時、村上はまだ小さかったのと、話したことがなかったので、身長がほぼ中曽根と同じ高さまで成長した村上は「初めまして」と挨拶をしが、中曽根は「あのだいしくんなのか!?大きくなったねぇ。安さんと同じくらいか?」と村上のことを覚えていた。簡単な自己紹介の後、中曽根は村上に「紹介したい人が来たから」と 宮澤喜一 を紹介してくれた。村上は父安から予め宮澤の挨拶方式を聞いていた。「初めまして」と聞かれる前に村上は「高校1年です」と答えた。宮澤から「どこの?」と聞かれたので「堀越高等学校です」と答えた。一瞬考えた後宮澤は「あーあの堀越さんの」と返事が来た。そして「しっかり励みなさい」と言われたのだった。
週が明けた月曜日の1時間目、村上は 堀越克明 校長に呼び出された。学級委員長の村上が呼び出されるので、1年B7組の仲間たちは心配していた。村上は「まだ堀越では何も悪いことしてないぞー」と半信半疑だったが、校長室前で「失礼しまーっす」と一礼してから部屋に入った。「村上君、昨日ね宮澤先生から電話あったよ」との話だった。堀越校長によると堀越と宮澤は学部は違うけれども、大学の同期だと分かった。「学校生活頑張りなさい」と言われて短い会話は終わった。1989年、平成の1番初めの年、堀越校長は朝礼で「平成とは、内平らかにして国成り立つ」と元号の意味を説明した。村上は学級委員長として他の学年派閥に属さない中立仲良しな1年B7組の仲間たちを率いて行く事になる。
秋になり村上を含めた1学年にとって初めての堀越祭体育祭がやって来た。中野校舎は狭いので堀越高校体育祭は系列の八王子穎明館高校のグランドで行われるのである。村上の1年B7組は運動神経優秀な仲間が多く、障害物競争以外は直ぐ選手が決まり、誰も出たがらなかった学年対抗 障害物競争 は学級委員長の村上が引き受ける事になった。皆が引き受けないので何となく嫌な予感がしたが、小さい頃から野山を駆け巡ってきた村上にとって、今回は球技ではないので障害物競争など「何とかなるに決まってる」と楽観的に考えていた。
体育祭当日、午後最初の競技、学年対抗 障害物競争 が「ヨーイバン」でスタートして村上は最後の障害物までブッチギリの1等賞で来た。「これで行けるぞ」余裕で最後の障害物である ハシゴ に村上が身を通した時、悲劇は起こった。村上の腰がややハシゴの枠より大きくて、勢い良く突入したことで村上の腰は見事にハシゴの枠にハマってしまったのである。どうにもこうにも、後にも先にもお尻が引っ掛かり、村上はハシゴから抜けられない。マンガのように村上は手と足を地面から離せばハシゴの枠の中で体がほぼ宙に浮いた状態になってしまったのである。
村上が5~6回踏ん張ったところで後続の選手たちが余裕でハシゴを抜けて行った。最後の ハシゴセクション の 審判員 は 堀越克明 校長である。さりげなく必死にもがいている村上を見ても正直な堀越校長は村上に一向に旗を振り下してはくれない。当たり前だ、村上の尻は見事にハシゴに挟まり動かないのだから。「はいぃ!終・わ・り・ま・し・たーッ!」と村上は心の中で呟くと、競技の1等賞は諦めて、瞬時に狂気の1等賞に切り替えた。「たーすけてー!ハシゴが抜けないんですぅー!」と村上はハシゴに刺さったまま足と手をバタつかせながら大声で嘆いてみた。振り返ると村上の嘆きに気づいた生徒たちが大爆笑している。「よっしゃ!」ともうひと声村上は仕掛けてみた。「校長先生ぇ助―すけてぇー!しっ尻が抜けないんですぅー!」村上が悲鳴を言い終わった途端、堀越校長は下を向いて一呼吸我慢して「プっ」と吹き出した。後にも先にも村上が知る限り、堀越校長が笑ったのはその時だけだった。
「そうか腰を斜めに捻れば楽に抜けられるかも」と気づいていたのだが「どうせビリだし」と心で呟き村上はわざとハシゴの枠にまた尻を静かに戻して挟まった。このネタでもう後戻り出来ない村上はハシゴに尻をはめて引きずったままほふく前進を始めた。校長の足元の線まで残り僅かな距離なのだが、村上はハシゴと合体して辛そうな芋虫の歩みになっている。笑うのを我慢しているので校長はいまだ旗を振り下さないのである。「校長先生モロにハマっているぞ!」と、村上は再度懇願してみた。「先生尻が外れないので早くその旗を振り下して下さ~い!村上くんが可哀そうだと思いますーッ」「村上くんとは村上の尻のことなのか?!」と思わせる村上の自虐破壊的な演出が効いて、校長は一生懸命笑わないように笑いが止められないようだった。直ぐに収まらなそうな笑いを止めようとしたのか校長はようやく旗を振り下したのだった。
体育祭最後の学年対抗リレーで後に仲間になる 赤坂晃 は素足で疾走して1等賞を獲った。村上は対照的であったが別の意味で1等賞を獲り「素晴らしい教育現場には純粋な大笑いが大切です」と言うメッセージを堀越校長に送れた事で、宮澤喜一 の電話に「これで報いた」と思っていた。

--- お気に入りのプレイリスト ---
堀越高等学校2学年の秋の校外学習は 飛騨高山 だった。出発点の 中野サンプラザ 前から目的地の高山市までバスでの移動時間が長いので、村上大志 は各クラスで回して聴けるように6本の120分プレイリストを落としたオーディオテープを用意していた。
洋楽と邦楽をバランス良く入れたそのテープは各クラスのバスでそこそこ評判が良かった。特にD組の 工藤正貴 は村上のプレイリストを絶賛して気に入ってくれた。工藤は村上が何をやっても褒めてくれるのである。放課後や週末にクラブの楽しみ方や流行りのステップを村上に教えたのも工藤だった。厳しい評価もあった。その当時海外の特に LLCOOLJ を代表とするブラックミュージックに精通していた 深津絵里 からは途中の双葉パーキングアリアの休憩時間、すれ違いざまに「村上の好きな曲よーくわかったよ」と辛口の評価をもらった。
風の音や波の音、台所の鍋が吹きこぼれる音など、人は生まれた時から聞いている音は聞こえ方が千差万別である。人が成長して流行りの同じ楽曲を同じ場所で聴いたとしても聞こえ方は世界人口分あるはずなのである。「誰もが飽きずに聴けるプレイリストを作るなんて無理かもしれないが、そこを目指さないとなぁ」と深津の一言は村上の大きな気づきになった。
高校を卒業してからイベント事で音楽を任される事が多くなって行く村上には、様々な用途にあった音楽を考える時、工藤の無条件の賞賛と深津の間髪入れない鋭い評価が原点になっている。その後村上はミネアポリスのラジオ番組で LLCOOLJ のインタビューに付き添い彼のモノマネをして生放送で彼の曲を歌うことになる。

--- 癒しの枕 ---
堀越高等学校2学年の 飛騨高山 校外学習 は連日寒かった。寒いのに更に寒い黒部ダムを見学に行った。2年B9組 学級委員長 兼 校外学習 総班長 の 村上大志 は情けなく鼻水が止まらなかった。ティッシュを鼻に詰めないと鼻水が出っぱなしの蛇口状態だった。黒部ダムの真ん中までB9組が来た時村上のティッシュが切れた。
とうとう村上の鼻は止まらない蛇口に最後のティッシュを詰めた状態で垂れ流しが始まっていた。「あ~ぁ寒いし最悪だなぁ」と村上が途方に暮れて、と言うより垂れた鼻水を鼻の中に戻そうとダム反対側に首を向けた時村上を覗き込む顔と対面した。「村上君だったよね、これ使いなよ」と自分のティッシュを差し出してくれたのはD組の 佐藤真一郎 だった。
1学年時に村上の学年では派閥間での乱闘未遂事件があり、中立学級の村上は派閥の違う佐藤とは話したことが無かった。その乱闘を仲裁してその場を収めた村上と佐藤はいつか話してみたいと思っていたらしい。水道の蛇口化した村上の鼻と村上にとって、佐藤のティッシュはダムの寒さを忘れさせた。村上には佐藤の心の温かさが何より嬉しかったのだ。
飛騨高山から東京に戻ると佐藤と村上は毎晩電話で色々な話で盛り上がった。村上の勉強が夜10時に終わると佐藤から決まって電話が掛かってくるのだ。「村上勉強終わった?今から来ちゃいなよ」と佐藤は言うのである。村上はバイクで新横浜の佐藤の家に行き、朝まで話し込んでから学校に行く事もあった。17才の高校2年まで村上はそれまでの波乱人生を振り返る暇はなかった。佐藤は時間を掛けて村上の過去の心の変遷まで聞いてくれたのであった。能の演者として未来が定まりつつあった佐藤は能で人生を決めるか又は俳優の道に進んで映画『青春デンデケデケデケ』に出演するかの岐路に立っていた。
佐藤は幼いころから鍛錬して来た能の道をスッパリ断念して「俺、俳優になるわー!」と迷いがなかった。佐藤の癒しと決断力はその後村上の支えになって行く。村上が高校に進学するまでに村上を理解してくれた多くの人々がこの世から旅立っていた。学校生活の内外で日々不条理と向き合う村上に休める場所となり、村上にとって枕のような存在だったのは親友の 佐藤真一郎 なのである。
 
--- メイクアップシャドウ ---
村上大志 は生まれた時から眉毛が薄かった。徳太郎爺も父安も眉が濃かったが、村上には遺伝しなかったのだ。俳優になっても眉毛が薄い事で、どの役回りも常に自信を持てずに仕事に向かっていた。マリ共和国から生還して帰国後直ぐに生徒会選挙だったので、生徒会長に立候補していた村上は「印象強くイメチェンしなくては!」と仕事の時にメイクさんに描いてもらうように自分で眉を描いてみた。「見てくれは悪くない」と村上は思ったが、実際は「存在感」というよりは「違和感」がかなり強めだったようだ。堀越高等学校の仲間たちの自分に対する印象が確実に変わり「これで行けた!」と村上は間違った自信を持ってしまった。
生徒会選挙前日の放課後、堀越高等学校中野校舎2階の3年B6組の前で仲間の 佐藤敦啓 とすれ違った。「敦啓またあし...たね」と村上が言い終わる前に、佐藤は「村上!眉毛濃すぎぃー」と一言言って村上の横をすれ違った。
堀越の仲間たちも村上の誤った自信に気づいても気を使って、気づかない振りをしてくれていた。佐藤は他に誰も見ていない瞬間を選んで村上の勘違いを正してくれたのであった。「ちょっと来てみ」と言って廊下の反対側の3B8組教室の影で佐藤は村上の眉毛を指先で直してくれた。
「これでOK!」村上の眉毛は自然で凄く良い感じになった。佐藤は村上の眉を直しながら描き方も教えてくれたのだった。佐藤はステージでも学校でも冷静でCoolだったが、仲間たちへの深い愛情を持ち合わせていた。佐藤の助けと谷川の推薦スピーチのお陰で村上は無事生徒会長に当選したのだった。


--- 暖かいドライアイス ---
マリ共和国で人質となってから生還し、新学期生徒会長に就任した直後から、村上大志 の前に新たな問題が立ちはだかった。
堀越高等学校 中野校舎 の正門を巨大化する工事が1年続く事になった。堀越高等学校 には昼休みにアイスクリーム屋さんが移動販売に来てくれていたのだったが、工事中の正門を移動販売車が通れないため1年間アイスクリーム販売は中止と決まってしまったのである。1年間と言えば村上の学年は卒業するまでアイスクリームを食べられないことになる。校則も学校生活も規律正しすぎる当時の堀越高校生徒達には昼食事のアイスクリームが去って行くことは死活問題だった。村上には、生徒達からアイスクリームを取り上げれば、生徒の誰かを学校近くのコンビニにアイスクリームを買いに行かせる問題が発生する事は目に見えていた。もうこれは村上がアイスクリーム屋さんになるしかなかった。
職員室にバレずに昼までアイスクリームをキンキンに凍らせておくにはどうすれば良いか。まず村上は小さい発泡スチロールのクーラーボックスに家の冷蔵庫で作った氷とアイスクリーム商品8本を入れて校舎に持ち込んでみた。やはり駄目だった。昼休みになる頃にはアイスクリーム8本は柔らかく溶けていた。出入りのアイスクリーム屋さんは ドライアイス を持ち込んでいたのだった。村上にもドライアイス が必要だった。悩んだ村上は学校帰りに品川駅前のウイング高輪の前を通りすぎた時、中に バスキン・ロビンス があることを思い出した。試しに当時売り出し中だった サーティワンアイスクリーム サンド を5個購入してドライアイスを3時間分買ってみた。貰ってきたドライアイスを家の冷凍庫に一晩置いてみると朝になってもまだ半分以上形が残っていた。次の日に新聞紙に巻いてみると更に大きさを保っていた。
しかし毎日 アイスクリーム販売 をやるとなると日月火水木で毎日 ドライアイス が必要だった。そこで村上はウイング高輪の バスキンロビンス の店長さんに相談した。その店長は 東海大学 4年生 のバイト店長だったが、村上が非常に困っている様子を察してドライアイスを売ってくれることになった。その店長の担当は月火水だったので日曜と木曜の店長にも話を通してくれた。
魚屋さん用の巨大発泡スチロールボックスをスポーツバッグに隠し運動部員に見えるが実はアイスクリーム屋さんの村上の1年が始まった。毎日アイスクリームを30数個と当時ほど良い濃さでいつもでもカルピスが楽しめる新商品の カルピスウォーター 350ml缶20本を中野校舎に持ち込み、誰にも学校外に買い物に行かせない約束で友人たちにアイスクリーム販売を始めた。それから卒業間際まで毎日、夏でも冬でも雨でも雪でもアイスクリームは完売した。学校から買い物に行かせる者もさせられる者も出なくなった。
村上の家の冷凍庫には高校を卒業するまでアイスクリームしか入れられなかった。担任の井置学教諭と毎日校門に立っていた野球部顧問の岡田教諭は村上の巨大バッグの中身を黙認してくれたのである。堀越高校卒業後の春休みに バスキン・ロビンス の店長にお礼を伝えに行った時、少しの時間差で店長はバイトを辞めていた。今でもあの時の恩に村上はお礼を伝えたいと思っている。
 
--- 中野インコ事件 ---
1991年5月初旬 連休明けの平穏な昼休み1羽のワカケホウセイインコが堀越高校中野校舎屋上の外金網の上にとまった。このインコを保護しなければならないと思い、村上大志 が動物と対話できることを知っていた 谷川知弘 が、1弁当2段の堀越弁当を3人前完食して昼寝をしていた村上を呼びに来た。寝ぼけながらもそのインコを助けようと言う事になり、谷川、村上と仲間たち数人はインコがいる場所の近くの校舎3階の窓に行ってみた。
場所が屋上欄干の外なので村上はインコを怖がらせないように3階の窓から水道管伝いに屋上に登ることにした。登る方は気にならなくても、向かい側の校舎2階の職員室からは、水道管を掴んで校舎壁面をスリッパ履きで登る村上の姿が大変な光景として映った。校舎壁面に張り付いている村上を見て、体育の金子和幸教諭が119番でレスキュー隊を呼んでしまった。インコと会話中で下で起きている事が分からない村上の下に エアーマット が用意されようとした時、安心しかけていたインコはエアーマットが開く音に驚いて飛び去ってしまった。仕方がないから戻ろうと下を見ると消防車と金子教諭の顔が真っ赤で騒ぎになっていることに気づいた。
「あ、すみませ~ん」と村上はまた登ってきた水道管を伝い3階の窓から廊下に戻った。当時の堀越高等学校は校内での上履きはサイズ小さ目の堀越スリッパだった。足のサイズ28cmの村上の足に更に小さ目のスリッパを履いて校舎の窓の外にいた村上は危険以外の何物でもなかった。2024年6月に32年ぶりに村上が在学中のお礼を言おうと同窓会に来校した折、村上の2、3学年時担任の井置学教諭と当時体育の教科担任の竹内弘幸教諭から再び怒られるまで、村上は32年間インコ事件のことをスッカリ忘れていて2人に頭が上がらなかった。村上が正式な許可なく校内で アイスクリーム屋さん を実行できたことも、村上の奇抜な行動や企画が堀越で実行できたのも理解ある恩師たちなくして村上の努力だけでは達成出来ないことだったのである。
 
--- 古典の勉強 ---
高校3年の12月に入った。工藤正貴 の家の前に着くと、黒ずくめの男が 村上大志 に拳銃を向けている。「いいから手を挙げろ!」「げ!本物の銃かも!?」と思い村上は両手を上げた。「嘘ぴょーん」と毛糸の帽子を取ったその男は仲間の工藤正貴だった。
工藤は村上が元気な時は更に、疲れている時は優しく元気づけてくれるのだった。村上は古典が得意科目でなかったが工藤は村上に古典を教えてくれと言うのであった。工藤の部屋に通されると、勉強そっちのけで村上の生い立ちを聞いてくれて、暗い経験は笑い話に変えてくれるのであった。2人の話は尽きなくて、簡単にテスト範囲の古典単語を復習しただけで、あっと言う間に夜になっていた。工藤の姉の 工藤夕貴 が「夕食食べていきなよ」と ケンタッキー フライドチキン のパーティーバーレル を2バレル村上に用意してくれた。1年生の時にクラスメイトの 谷川知弘 は3学年時は工藤と同じクラスだった。村上が谷川の家にとまった時、村上がお寿司を12人前完食していて、凄く大食であると工藤と姉は谷川から聞かされていたらしい。
「凄いね、あっという間に無くなっちゃったね」と姉の工藤夕貴 に言われた通り2バレルの鶏肉の山は素早く静かに小さな骨の ピラミッド になっていた。工藤は「村上の食事はマンガだよ」と言っていた。すでに22時30分を回っていた。2人はもっと話したかったが明日が期末テストなので、村上は 工藤正貴 とご家族に深くお礼を言ってお暇した。
 
--- 真夜中の学校 ---
1991年12月初旬 仲間6人は高校3年の2学期末テストの勉強をするために中目黒にある 南谷邦雄 の家に集まった。勉強仲間の 赤坂晃 の歌番組の放送が終わるのが23時で、放送テレビ局から1番近い南谷の家での勉強会と決まった。学校行事と仕事の両立で皆疲れていた。村上大志 は23時まで目黒に住んでいる 工藤正貴 と勉強会をした後で、放課後解散してまだ数時間しかたっていなかったが6人は合流すると安心して、寝入ってしまった。
朝1時になり、テストまであと9時間しかないので、西川享伴 が村上、南谷、赤坂、吉沢、石井を起こし、6人は目を擦りながら勉強を始めた。不思議と朝5時まで集中力は持続してテスト範囲は何とか勉強できた。お腹がすいた6人は近くの ファミリーマート で軽食を買って、手早く朝食を済ませ学校に向かった。村上は 工藤正貴 の家で ケンタッキー を山盛りご馳走になり完食していたが、まだお腹が空いていて ファミマの 幕の内弁当 2つを完食した。コンビニ前で弁当を完食する村上をみて、赤坂は「村上足りたか?」と心配していた。早朝でその時ファミマには3つ目以降の幕の内弁当が無く、村上の朝食は弁当2つで打ち止めだったのだ。
村上は生徒会長に選出されてはいたが、1年を通して常に仲間たちの助けに支えられていた。堀越時代村上が危うい時は西川、南谷、有川、北原が守ってくれていた。あの夜、西川だけは5人を後で起こそうと朝まで寝なかった。村上の体調の変化に初めに気づくのはいつも誰にでも優しい赤坂だった。西川と村上は 堀越高校 卒業後、一緒にダンス&ボーカルユニット ZOO のダンススクールに通っていた。もっと本気で西川とダンスをしておけばよかったと村上は後悔している。勉強会の結果、6人全員の得点が上がり 卒業認定 が見えて来た。

--- 街の掃除屋さん ---
堀越高等学校3年の2学期も終わりに近づくと、下校時刻になるとあたりは暗くて、道には街灯が灯っていた。村上大志 は堀越高校入学時より各学年の通学路にゴミが沢山落ちていることを知っていた。3学年の通学路は中野駅から総武線の線路沿いに弥生町にある中野校舎に向かうのだが、道の脇には空き缶、タバコの吸い殻、くずゴミが1日中散乱して、折角ある線路沿いの植え込みの上にも何かしらゴミが乗っている状態だった。3年生になり役職と権限が出たので村上は下校時間に1人通学路のゴミ拾いを始めていた。2学期末になるまで村上は生徒会や1年生から3年生まで沢山の仲間たちに助けられて、日々ゴミ拾いを続けて来られた。
もう直ぐ2学期の修了式になる寒い冬の日、村上は過密スケジュールで寝不足だった。村上はその日の下校時下駄箱で 赤坂晃 に「村上、顔色悪いけど大丈夫か?」と言われるまで自分の体調の変化に気づかなかった。中野駅まで一本道になる所に来る頃になると村上は手に力が入らなくなっていた。そんな日に限ってゴミが沢山落ちているのである。ゴミ袋を持っている右手が重かった。
村上がよろめいてゴム手袋をしていない左手を膝につきそうになった時、右手に持っていたゴミ袋が急に軽くなった。「村上くん、大丈夫ですか?」 草彅剛 と 稲垣吾郎 だった。草彅が燃えるゴミ稲垣が燃えないゴミ袋を持っていてくれたのである。「一緒に駅まで行きましょう」と草彅のひと声に稲垣は横を向いて笑っていた。友の寄り添いほど勇気を湧き出させてくれるものはないのである。村上は熱が出始めていたが、元気になって3人で中野駅まで辿り着けたのだった。
 
(  アメリカ時代  ) ---
--- 醜いNIKEシューズ ---
上妻宏光 と 村上大志 は堀越高等学校を卒業した次の夏、初めてアメリカに行った。上妻と村上は堀越高校2年B9組で同窓になって以来、高校を卒業した後も時間がある時に遊んでいた。海外に興味が向いていた当時の村上は上妻の家に泊まる時や、ドライブに行く時に日本の外の世界の話をしていた。上妻と村上は3学年時、別々のクラスになったが、いつかアメリカを見に行こうと話をしていたのだった。
上妻は自らの三味線演奏を伝統的な津軽三味線とその枠の外の音楽ジャンルと融合する音を模索していた。村上は海外の大学のプログラムに自分の未来を描き始めていた頃だった。10日間の日程で日本人があまり行かなそうなミネソタ州ミネアポリス行きの航空券をHISで予約して成田を発った。上妻は選べる堀越修学旅行でもアメリカコースを選んでいたので、これが2回目のアメリカだった。
ミネアポリスでの宿泊は夏休みでミネソタ大学の学生寮が解放されていたのでそこを格安で利用した。ミシシッピー川に掛かる長い橋を歩いて渡るとミネアポリスのダウンタウンに着いた。お土産に2人は NIKE シューズ を探していたのでサウス7thストリートにあったダウンタウンのフットロッカーシューズショップに入った。村上がダンス用にやや派手なカラーリングのバスケットボールシューズを手に取った瞬間のことだった。「Hey! It`s Ugly!! (それ、メッチャブサイク!)」と村上の趣味にストレートに苦言を言い放った者がいた。自分の意見を躊躇なく発する身長も存在感も大きいアフリカンアメリカンのお姉さんだった。相手の気持ちに配慮して、たとえ不本意だとしても相手の趣味を賞賛して相手を傷つけてはいけないと言う空気の日本で育ってきた上妻と村上にとって、そのお姉さんの発言は激しすぎて、2人とも自由の国アメリカの洗礼をストレートに喰ったのだった。
当時流行っていたローラーブレードをミネソタ大学の巨大駐車場でやったり、路線バスに乗って開店したばかりの世界一の大きさを誇るモールオブアメリカに行ったりしている内にあっという間に上妻と村上は成田に向かう飛行機に乗っていた。成田からの帰りの車で「俺たちはまだこれからだから、広い世界を目指そうぜ!」と上妻が村上に言った。東関東自動車道でハンドルを握る村上は隣に座る上妻に一言「おう!」と答えた。
村上大志 はその半年後ウィスコンシン州立大学に合格して留学する。上妻宏光 は村上がミネアポリスでラジオ番組に出演していた2004年にライブツアーで再びミネソタを訪れることになる。あの醜いNIKEシューズは怖くて買えなかったので、村上はその隣に飾られていたエアーマックス1993を記念に購入して大学時代、ダンスの練習でそのNIKEを使っていた。あのエアーマックスを買う時、フットロッカーのレジで同じお姉さんに村上は「DAMN NICER!(マジいいじゃん)」と言われたが、ミネアポリス の ラジオ局 B96 FM96.3 で喋る頃までその意味が分からなかった。
 
---トワイライトパーティー ---
ウィスコンシン州立大学 に入学して最初の学期末、住んでいた大学内の学生寮生活から抜け出すために 村上大志 は大学郊外に住んでいたマケドニアから来たダニエラとセルビアから来ていたマヤと新に家を借りて一緒に住んで楽しくやろうと言う事になっていた。
マヤとダニエラは大学の留学生事務局でアルバイトをしていて年間200人余りが入れ替わる外国人留学生たちの中心にいた。英語が苦手な村上は大学入学オリエンテーションから2人に面倒を見てもらっていた。マヤはその当時の外国人留学生会の会長でもあった。「それでさ大志、何か楽しいことしようよ!」、ワイングラス片手にマヤが切り出した。大学から歩いて5分弱のリンカーンアベニューにひっそり佇む築140年の木造家屋の一階リビングで放課後くつろぎながら3人は始まったばかりの新学期のプランニングに思いを馳せていた。
パーティーとか考える前に村上は英語が苦手だったのだが、高校時代に東京各所で工藤正貴に連れられクラブに出入りしていた経験から、「パーティーはミュージック物だろうな」と思った。パーティー会場になる自分が住んでいる借家のスペックを頭に入れて、必要音量と音質を計算して、パーティー設備を大学郊外の オークウッドモール にある家電総合店の ベストバイ に探しに行った。1990年代中盤は円が強く1ドルが85円あたりで安定していた。電気屋では日本では見たこともないような巨大ステレオセットが日本国内のCDラジカセ並みの値段で買えたのである。村上はアイワ製の1番出力が強いステレオセットと映像と音を同時にミックス出来るSIMAのミキサーを格安価格で購入できた。
高校時代から音楽ビデオ集を趣味で編集していた村上はかねてから音楽ビデオ集を使ってクラブパーティーをやったらどうなるかを考えていた。予め日本からクラブ音楽のビデオは持参していたので、ビデオの曲の合間にCDラジカセから音をフェードミックスしたプレイリストを即席で作ってみた。ヨーロッパ勢、ヒスパニック勢、インド勢、そして村上を含むアジア太平洋勢とウィスコンシン州立大学は多種多様な学生たちを世界中から入学させていた。日本人バイアスがかかったプレイリストで皆に通用するか自信は無かったが、最初のパーティーの夜、クリスタルウォーターズの「100%ピュアラブ」から曲を流し始めると、10畳あるかないかのリビングルームと家の外の庭にいた250人余りの留学生と地元アメリカ人生徒たちは盛り上がり始めた。その夜村上は迷ったが日本代表として、trfの「EZ DO DANCE」を流してみた。世界各国から来た学生たちは普通に盛り上がった。その後リンカーンアべニューの住人たちは村上が卒業するまで毎月クラブパーティーを開くことになる。
村上のおばちゃんくらいの年齢の地元オークレアの芸術家でこの借家の持ち主である ローリー・ビーズ は家の表部分に住んでいた。マヤ、ダニエラ、村上はローリー から家の裏の部分を間借りしていたのである。ブラックライト と携帯 ミラーボール で光り飾られた第1回目のクラブパーティーの途中で大家のローリーが突然家の表部分と繋がるドアから現れた。大音量と光の渦で、「こりゃ絶対怒られてパーティー終わりだわぁ」と思った村上の予想に反してローリーは開口一番「なんて素晴らしいトワイライトパーティーなの!」と言い放った。ローリーは築140年で床が抜けてもおかしくないほど振動しているリビングに立ちこのトワイライトパーティーを喜んでくれたのだった。
ウィスコンシン州、オークレア市は保守の町で、1990年代に借家で外国人留学生がクラブパーティーなど前代未聞だったのだが、反対する近隣住民を説得してローリーは村上達に在学中パーティーをやらせてくれたのだった。村上の卒業式に参列するため祖母の 吉田アヤ が89歳で太平洋を渡ってリンカーンアベニューにやって来た時、そこでアヤは村上が大変お世話になって来たことを直感して出会ったその場でローリーと長いハグをしていた。


--- 本物の母親 ---
村上大志 は生まれてからアメリカに留学するまで、友人たちと一緒にいる時以外は1人で過ごすことが多かった。授業参観や保護者会は祖母の吉田アヤが来れない時はいつも1人で受けていた。五反田幼稚園の先生方、友人のお母さんたち、青物横丁のおもちゃ屋チャッピーのおばちゃんに面倒を見てもらっていたので左程孤独を感じることなく成長させてもらった。
しかしアメリカに移り住んだ時ばかりは言葉が通じなかったこともあり、それまで多感な時期も1人だった事が思い出され余計に英語を話せなくなっていた。留学して4年経ってもわかりやすい英語を話せない村上に、「当り前じゃない、あなた日本人なんだから。私がアメリカのお母さんだから心配しないで学校に行きなさい」と初対面の村上に母親宣言をしたのは眞壁祥枝の最初のホストマザーである キャシー・ピーターソン であった。
在米中 キャシー・ピーターソン は村上が大学を卒業してミネソタに引っ越した後も度々世話を見てくれた。1999年に村上の祖母の吉田アヤが村上の卒業式に参列した折にも吉田を自分の母親として世話を見てくれたのだった。2019年にピーターソンが日本に来た時は友人のデボラと共に埼玉県東松山市立唐子小学校でハロウィンの英語授業を一緒にやってくれたのである。村上がフクロウを好きなことを知っていたピーターソンは小川町の道の駅で和紙で作られたフクロウのキーホルダーを「お母さんからのプレゼントだよ」と言って買ってくれた。村上は今もそのフクロウをお守りにしている。
 
---  唯一無二であることの証明  ----------
地球人口83億人余の人々はそれぞれ違う人間です。先進技術によりクローン人間を作ったとしても、その体に宿る魂は元の人間とは異なる可能性が高いのです。人はそれぞれ全ての人生が素晴らしいのです。与えられたそれぞれの人生はそれぞれ唯一無二の財産なのです。しかし、その掛け替えのない財産を人は簡単に見失うこともあります。そのような時、それぞれの財産の尊さを教えてくれるのは隣の誰かだったり、会ったことがない地球の反対側に住んでいる人かもしれません。全ての人が寄り添いあう心は私たちの未来を照らすのです。寄り添いの心マザーランドはこの宇宙の全ての皆さんの財産なのです。
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